点と線、そして面への道行き・雑感

 前世紀のもの、それも半世紀もそれ以上も前のものも当然に〈いま・ここ〉として読むような日々をずっとしてきていると、かつての雑誌に当時の無名の若い衆として掲載された署名記事が、昨今の情報環境の有難さ、検索してみると、のちに名のあるあんな御仁こんな人物になっていたのを確認できたりする。

 いわゆる思想系の雑誌(ほんとにそういうのが多様にそこら中に出ていたんだが、それ自体がすでに「歴史」の相で考えにゃあかんことになっとる……)の何でもない投稿や掲載原稿の署名の御仁が、その後どういう人生を送って世を過ごしていった後、概ねここ10年ほどの間に亡くなったりしているのか、かつての点が線として〈いま・ここ〉に俯瞰できるようになっているのは、いろいろとまた感慨深い。

 某所に死蔵状態になっていたそんな思想系古雑誌の類を、無職隠居老害の身の上でもあるし、もうできるだけ手もとに置いておこうと少し前に無理してえんやらやえんやらや、とばかりに持ってきたんだが、それを日々よしなしごとの合間に気まぐれに手にとり、めくってそこに出てきた名前をweb叩いて検索してみているだけで、結構気づけなかった線や面が時代相の中で浮び上がってきたりする。

 たとえば、何でもいいのだが、本邦フェミ界隈の昨今露わに可視化されてきたあまりに常軌を逸したワヤのあれこれ、かつての生活記録運動などとどこかで地続きの背景があるように漠然と感じていたことに、少しずつ裏づけというか、点が線となり面となってゆくらしいことを日々、それなりに実感している。

 「敗戦後のサークル運動史は(…)四期に分けることができる。第一期は、人間性の恢復がもっとも強く叫ばれた時期で、平和運動や青年会活動が活発に行われ、それに付随して多くの機関誌(紙)が発酵された昭和27年まで。第二期は、昭和28年から31年までで、この期間は生活記録やうたごえ運動が活発になると同時に、地域の問題に立脚したサークルが相次いで生まれた。第三期は、原水禁運動や警職法改正案反対闘争などに多くのサークルの活動の焦点がしぼられ、安保闘争には戦後サークルのひとつの総決算ともいえる動きをみせた昭和35年まで。第四期は、安保闘争直後は報告集会や記録集の発行などを活発に行ったが、昭和36年後半ごろから停滞の傾向をみせはじめ、生活の近代化や労働の合理化などがすすめられる中で、しだいの活動の動きを鈍くしてきた現在までで、敗戦後のサークル運動の中ではもっとも後退現象の著しい時期であり、現時点でも新しい動きはなく、後退したままである。」

 1969年に書かれた記述だけれども、安保闘争後9年を経過して、それ以前に至るサークル運動の経緯について、わかりやすく自省、俯瞰してくれているこのような断片的な、それはそれで個人の体験や見聞を介した個別具体の実感でしかないにせよ、ひとつの民俗資料的な意味あいは確かにある。

 「敗戦後のサークル運動の出発点は、戦争という重圧から解放された人々が、人間性の回復を求めてサークル活動を活発に行ない、やがてその中から地域の問題に視点をむけるようになった。その姿勢は自分たちの周囲からさらに社会全体にむけられ、原水禁運動や警職法改正案反対闘争などへの参加を経て安保闘争で活動は頂点となり、その中でのエネルギーを消滅させてしまったとみることができるだろう。

 ただ、このような平板な総括の中にも、微妙なグラデーションはあったらしい。

 「といっても、第四期にはすべてのサークル運動が停滞したのではない。エネルギーを消耗して活動をとめたり、動きが鈍くなったサークルは、若い人たちが中心になっていた生活記録のサークルがもっとも多い。秋田県だけをみても、安保条約が批准されたあとに六誌が安保特集号をだしたが、その翌年から廃刊するサークル誌が相次ぐようになった。しかし、政治的季節をもっとも活発に動いたサークルがこうした実状にあるとき、短歌、俳句、川柳などの結社グループの動きにはなんの変化もなかった。」

 「敗戦後のサークル運動をたどると、地域とか社会問題に肉薄していく運動そのものが、あまりにも個人的な要求によって行われているのがわかる。そのため、社会状況から孤立することによって、逆にサークル運動をすすめてきた傾向が非常に強い。」

 「周辺でいつも起こっている地方選挙の不正とか、封建的な本家と分家の関係などを詳しく記録しても、それはひとりの当事者の恨みや怒りだけが表現されているだけで、社会とのつながりがほとんどうまれてこない。そのために記録をする人も、その事実だけをひと息にさっと書いてしまうと恨みも怒りも薄らいでしまうため、個人的な恨みとか怒りは社会が内包しているウミとして発展することも、組織の因子となることもなかったのである。」

 動機は何であれ、個別具体の個人に根ざした「生活実感」をうっかり言語化して共有してゆくことで、それこそ蠱毒エリジウム的なエコーチェンバーを効率的にwこさえていってしまう、それら「運動」(サークルなども含めての「ゆるやかな」と称されてきたもの)の病理みたいなものを下地にしながら、とかいろいろと。

 それこそあの「当事者」というもの言いがなんでここまで特権的な呪文と化していったのか、といった問いについても、このあたりの下地を補助線にしながらあらためて考えてみることは、おそらく既存の思想史だの戦後史だのといった脈絡の背後に潜むココロのワヤの水脈を発見してゆくことになるはず。