文系学者は作家くずれ説・雑感

 これはまた何というか……一見、ああなるほど、そういうことか、とうなずいてしまう程度に、あるいは、そういう印象持つのも仕方ないかもな、というくらいにもっともらしい挿話にはなってはいるけれども。

 その「文系の先生」がどういう領域の御仁だったのかわからないが、そのまわりにおらした人がたにそういう来歴の人が多かったりしたのだろうな、と。個人の見聞体験ベースの挿話としてそれはそうだったんだろうし、そういう印象はある程度一般性がありそうな印象を、世間一般普通の人がたの間にもすんなり喚起するような気はする。

 とは言え、「作家」をめざすということ自体が、少なくとも近年いまどきのものさしからすれば、かつてのいわゆる「文学」を価値として粒々辛苦、それこそ同人誌でも仲間とつくりながら懸賞に応募したりしつつ、職業「作家」としての「デビュー」を夢見る――ざっとまあ、そんな感じの道筋としてあたりまえに「そういうもの」として想定され得ていた時代と情報環境においての設定に過ぎなくなっているはず。それはかつてのように小説などでなくとも、いまどきのラノベなりなろう系なり、あるいは広義のマンガやビジュアル系創作などもひっくるめての現在、なのだと思う。

 「作家」くずれ、が大学の教員になる、それも文科系・人文系の、というのは、喰ってゆくための方便としてそのような途もあったということで、もしかしたら現実的にはそれ以上でも以下でもなかったのかもしれないのだが、しかし、このtweet主の価値観・世界観においては、本邦人文系学術研究の「真理に近づくため」のあたりまえの手続きを軽視する(ように見える)たたずまいと短絡、直結されて解釈されるものらしく。つまり、この御仁の眼と解釈枠組みにとって、大学の教員であったりもする人文系の連中というのは、そのような本来実現されているべき自分のありよう、別の陳腐な言い方をすれば「夢」を実現できずに「挫折」した負け犬たちの掃きだめでしかなく、それは自分のような大学教員として本来あるべき「真理に近づくため」の手続きを自明に尊重し遵守するという価値観など持ち合わせようのない、その意味で「二流」の大学教員でしかない、ということなのだろう。

 身すぎ世すぎとしての大学教員というのは、普通にあり得た選択肢であり続けていたと思うし、それは高校教員でも新聞記者でも編集者でもライターでも同じこと、自分のやりたいことをやるための時間と余力、経済的な意味も含めてのそれを確保するためのなりわいは、まさに「余暇」を産み出すための方便としてあっただろう。で、それはそんなに軽侮され、見下されるようなものだったのだろうか、という素朴な疑問が、やはり湧き上がってこざるを得ないのは、その大学教員というなりわいの「本来あるべき姿」に対する信心の深さが初手から持ち合わせようのなかった外道ゆえの感慨でしかないのかもしれないけれども。