論文や専門書のいまどき、との対し方

 いわゆる研究論文や専門書の類、参考文献や註から眼を通すんだが、昨今それであらかじめ「ああ、こういう範囲のこういう目配りしかしない/できない人なんだな」という、概ね良くない意味での見切り方を容易にさせられてしまうことがほぼほぼ普通になってしまって、思えばもう久しい件。

 飼い主≒指導教員やら研究室やら所属学会やら何やらの器量や手癖の類までくっきり透けて見えて、で、その上にその書き手自身の良い意味での歪みや業みたいなものが重ね焼きにされている愉快が見えなくなっているものが大方になってしまい、そんな嘆息が常になって、さて、もうどれくらいたつのか。

 もちろん、こちとら捨て育ちの外道のまんま無職全裸老害と化した身のこと、いまどきそれら世間の側からすればそれこそ「しらんがな(´・ω・`)」だろうが、でも、こんな論文や専門書を無難に行儀良く効率的に「生産」してゆくことに自ら特化、可能性を鋳型にはめてゆくことがガクモンだったのかな、と。

 自分の興味関心と関わりの薄い範囲の領域やお題なら、そういうものかな、と感度も鈍く流しておけるが、われとわが身のお題と交錯するようだとどうにも気になって仕方がなくなる。なんだろう、ああ、もったいないなぁ、という感じがもしかしたら近いかも。これ自体、老害ならではの感慨になりそうだが。

 逆に、その分野なり問いに関わる「最新の」仕事について情報として教えられることは少なくない。それだけこっちは浦島太郎なわけだが、ただ同時に、じゃあそれらを頑張って読まねば、という風に必ずしもならないあたりがもう、あの「おりる」を選んだことの限界でもあるんだろう。それは潔く甘んじる。

 しかしさらにまた翻ってのことだが、そういういまどきな論文や専門書を効率的に淡々と「生産」し続けるようになっている、その仕組みやそこに関わる世間そのものが、本邦人文系なら人文系に限っても、さてどれくらいの豊かな果実の養いになり得てゆくのか、これもごく素朴に疑わしくもある。

 自分みたいな外道であっても、かつてそれなりに夢見ることのできた、そういうガクモンの先行きが、ざっと40年近くたったのちの現在、こういうありさまになっていることに対して、残りの生に許される時間と気力、体力の限りで、何らかの言語化なり意味づけなりをしておかねばならないのだろうとは思う。