見えづらい貧困、エリジウムネイティヴ的な・メモ

 個人的に遺児支援のあしなが育英会ひとり親家庭向け食糧支援のグッドネーバーズ・ジャパンと難民支援のUNHCRにささやかながら寄付をしているのだけれども、どれも都心部で暮らす人たちからすると見えづらい存在なので自分ごととして捉えにくく、資金が集まりにくいという側面もあるのかなと思った。


 大学に入った時、「自分たちは努力したから良い給料を得るのは当然だ」という価値観をあっけらかんと話す友人が結構いて、多様性溢れる限界地域から進学した自分としては衝撃的だった。治安の良い小学校から中高一貫校に行くと、困窮家庭というのは視界にすら入らないので、触れ合うことがないという。


 慶應に来るような育ちの良いフレンズはみんな性格も良く、フィリピンやカンボジアの恵まれない子供達を支援したりドキュメンタリーを作ったりして、キー局とか総合商社とかに進んでいた。今から思うと、彼らにとって国内の貧困問題よりも途上国の子供の方がよほど手触り感があったんだろうなと。


 彼らにまったく悪気はなくて、本当に知らないだけなんだろうなと。日本は治安も良いし、貧困問題というのは関心がなければ視界に入ってこないものなので。濾過された人間関係の中ですくすく育ち、大手企業に入って勤務地は東京か海外駐在のみ、みたいな人生だと貧困と接することなく暮らせてしまう。


 そして恐ろしいことに、貧富の感覚というのは相対的なもので上には上がいくらでもいるので、素敵な人生を歩んでいても自分が恵まれているということに気がつけない。寄付なんて金持ちがするものでしょ、我々は所得制限で児童手当も貰えないし、ローンと教育費でカツカツだし、みたいな肌感覚。


 かく言う自分も地元だとそこそこ恵まれてたけど、大学に行ったら帰国子女でもないし海外旅行にポンと数十万出してくれるような親はいないしで、割と劣等感に苛まされていた。社会人になってたまたま多様性に向き合う職業に就いたので軌道修正できたけど、あのままだと今頃こじらせてた可能性が高い。


 人生なんて努力でどうこうできる部分はほんの数パーセントでほとんどは運ゲーなので、運良く恵まれた立場の人たちはタワマンのローンと教育費に重課金するだけじゃなくて余った金を寄付に回して罪悪感を薄めていこうぜ、というスタンスなんだけど、まあなかなか共感されないだろうし難しいよね。


 酔って思いつきで書いてるのでオチもなくグダグダですが、宗教がない日本で寄付文化を根付かせるためにはどうしたら良いのかなーと最近では考えております。子供にクリスマスプレゼントを贈るついでに、貧困の連鎖を打ち破るべく努力する子を応援できる社会にしたいですね。

 あしなが育英会、の学生若い衆がひとり、自分の学科に入ってきたことがあった。

 入学する前から、当時の学長に声がけされて、まあ、事前に紹介されていたような形で入ってきた。学長が以前にいた大学での教え子の息子さんということで、離婚して母子家庭、あ、いまはシングルマザーって呼ばなきゃならないのかな、何にせよそういう家庭事情で、例によって不登校気味になって中学から高校あたりで若干ヨレた経緯のある子、とのことだったが、その関係でいくらか歳はダブっているものの、面接での印象もそう悪くもなく、引き受けても大丈夫と判断した。当時、学部長と学科長を兼任していたので、そういう立場に下ばなしをしておくという意味だったんだな、とは思ったが、それはそれだ。

 で、この子があしなが育英会の奨学生だった。母親も大卒で、しかも国立大の教育学部か何かを出たような、いわゆる「マジメな」ご家庭のご婦人という印象。子ども本人もさることながら、この母親の方があしなが育英会にどっぷりハマっているようだった。

 案の定、この育英会の活動にかなりの時間も労力もさいていることがわかってきた。シンママである母親が、喰うのにあまり困らないのが時間があるらしく、そっちの活動に熱心に肩入れしているだけでなく、学生である息子自身もすでに巻き込まれていて、必修科目や見学旅行など、クラス単位で動かねばならないような予定に対しても、当然の権利のような態度で「あしなががあるので休みます」と言ってよこす。あまりに眼にあまるので、何度か個別に呼んで注意喚起したのだけれども、それが母親にも伝わって、そちらから直接連絡してきて、まあ、要するにクレームが入ったという次第。

 入学前からいわばご指名みたいな形で入ってきて、担当教員みたいになっていた分、このあたりこじれたらめんどくさいのはありありだったのだが、さすがにスジが通らないところだけはきちんと説明して対応したのだが、結局、その後は大学そのものからも疎遠になり、確か中退みたいな形で姿を消した。

 その後、しばらくして地元のローカルニュース枠で、あしなが育英会のことがとりあげられていた時、何やら街頭で他の大人たちと共にアピールしている姿がちらっと映っていて、わずかながら伺い見たその表情その他は、もうほぼ完全に「そういう界隈」の型通りのできあがり方をしていた。SEALDsより少し前だったけれども、その後そのあたりに紛れ込むようになっていたとしても、特に驚きはしない。

 彼のような境遇の若い衆が、リスクを背負いながらも敢えて大学へ来ること、何者かになろうとして入ってくることの結果が、そのようなものであることを、こちらが期待していたわけではないことは、言うまでもない。