アニメと「楽園」環境・メモ

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 それこそ「けいおん!」とか最近の「映像研……」とか、ああいう「高校」(という理想の楽園環境)のサークル的関係を鉄板の下地にした創作類見てると、ああ、ああいう世界が少しでも〈リアル〉に感じられるような若い衆自体、実はもはや相当いろいろ恵まれた上澄みなのかもしれんなぁ、と思ったりする。

 ああいうの、それこそ「リア充」が自明の前提で、それなりに自己肯定感や何らかの自信やらが備わった若い衆がまわり含めてある程度あたりまえ、な環境でないと本当には楽しめないところあるんじゃないだろうか、とかいろいろと……

 うまく整理できんけれども、たとえばいわゆる「おたく」的心性(実はこういう言い方じゃぼやけちまいそうだがとりあえず)にすでにあらかじめ埋め込まれている「リア充的なるもの」が要素として介在しないと、ああいう作品世界の〈リアル〉は実はうまく響いてこないんじゃないか、とか、な。「リア充」という〈それ以外〉が存在していて、初めて作品世界としての〈リアル〉もこちら側に切実なものになる。つまり、自分たちの「おたく」的ありようから明らかに異なる属性の存在としての「リア充」を鏡として置いて初めて、その「おたく」的ありようにとっての「楽園」は光り輝くものとして「おはなし」世界での〈リアル〉を獲得することができる、と。

 それに対して昨今は、むしろそのような「リア充」という〈それ以外〉な鏡なり反響板なりをすでに必要としない、それこそあの「君の名は」みたいな作品のその世界の方が、ネガな意味での「おたく」っぽい〈リアル〉というか、その「リア充的なるもの」が要素として介在しなくても成り立つ構造があったりせんのだろうか、とかも含めていろいろと要審議継続案件。

 ひとつ、いまの時点で書き留めておかねばならないと思うこと。自分が「君の名は」に対して拭い難く抱いた「いや~な感じ」ってのは、作品の世界が商品として提示されてゆく場合に必然的にまつわってくるはずの開かれ方に乏しい、この場合だとそういう「リア充的なるもの」が要素として創る側に内在化されている気配が薄いってあたりに関わっていたような気がする、ということ。〈それ以外〉を必要としない、そのような異物を鏡として初めて〈リアル〉になるこちら側≒「自分」という構造そのものが、すでに眼前の現実に組み込まれているかも知れないことも含めて。

 古い人間なんでずれてるかもしれませんが、以前先生が指摘されてたように、オタクになるには一定の恒産が必要という前提はまだ生きてるのかもしれませんね。ネットのおかげで相当敷居が低くなったとは言え。新海監督は『君の名は』以前は、もっとどストレートにオタクの妄想映画作ってたんですが、川村元気がコントロールしてキャラクターを快活に作り替え、デートムービーとして見られるものになったようです。今や親世代や普通の子も、薄く広くオタク文化で育ってるから。ただ、次作『天気の子』は、貧困の拡がりを意識した内容だったみたいですね(観てないんですが)。『けいおん』なんかもけいおんはそれ自体がオタクの桃源郷みたいな世界観でなかなかリアリティは生みにくいですが、映像研は浅草氏だけが自分の妄想した世界とリアルをいったり来たりするオタク的心性持ってることでオタクがリアリティを持ってると思います🙄

ワシけいおん!好きだったけど、あれ盆栽眺めているイメージなんだよね、ワシ。非現実や人工を楽しむ、的な?

 『五等分の花嫁』というアニメを見終えたところなんですが、途中に出てきた林間学校の話が切なかったです。私には無かった青春でした。逆にもっともっと若い頃はこういうのは自分が「これから」取り戻すんだ!って憧れられたんですけれども。

 アニメの主人公たちの家が立派すぎて、こんなもん見てて面白いのか?とはよく思います。

 ほんとそれです。家が立派だったり高校生が立派なマンションで一人(二人)暮らししてたり。女子無駄も青ブタもクズの本懐も俺ガイルもこいつらどんな家庭なんだと。

*1:「君の名は」問題を下敷きにした違和感の来歴について、という感じか。備忘的に。