熱々で魚の出汁が効いてて、本場の中華粥なのかはわかんないけど美味しかった。「夜通しゲームやろうぜ」「じゃあお前んちな」って話して急に行った俺らのために、わざわざ作ってくれたのが嬉しかったし、友達の中国人が親に大事にされてるのが伝わってきた。そこには日本人も外国人もないよな。
— えりぞ (@erizomu) 2020年1月5日
PS2の連邦vsジオンやりながら、「卒業したら、みんなで兄貴の店を手伝って、アパート一室借りて、みんなで一緒にゲームしながら暮らそう」って中国人が熱弁振るってたの、昨日みたい。「またその話かよ〜」って笑ってた。17歳だった。みんな女の子となんて話したことも無かった。
「ババアくそウザい!」とか言いながら中国人の友達もちゃんとお粥食べてて、「そういうこと言うなよ」「親は日本語わかんないから大丈夫」って話してたら「ババアくらいわかるんだよ」みたいにまた怒られてたの、北野武の映画じゃん…ってなった。
たむろする、という状態と若い衆という身のありようの複合。まさに「ひとり」として認知されるようになってゆく前の、混沌とした「若い衆」という段階ならではの。そしてそこにゲームが媒体として介在しているあたりが、まさに〈いま・ここ〉感の勘どころらしく。
同じく未だ一人前以前の若い衆時代の長谷川伸が、横浜の南京街に足繁く通ったという中華料理屋の中国人親子の描写が〈いま・ここ〉に甦ったかと思ったくらいに、そこに描かれている何ものか、は共通したものに感じられた。