ある「いや~な感じ」と「リア充的なるもの」の介在

 

 それこそ「けいおん!」とか最近の「映像研……」とか、ああいう「高校」(という理想の楽園環境)のサークル的関係を鉄板の下地にした創作類見てると、ああ、ああいう世界が少しでも〈リアル〉に感じられるような若い衆自体、実は相当いろいろ恵まれた上澄みかもしれんなぁ、と思ったりする。


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 ああいうの、それこそ「リア充」が自明の前提で、それなりに自己肯定感や何らかの自信やらが備わった若い衆がまわり含めてある程度あたりまえ、な環境でないと本当には楽しめないところあるんじゃないだろうか、とかいろいろと……

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 うまく整理できんけれども、たとえばいわゆる「おたく」的心性(実はこういう言い方じゃぼやけちまいそうだがとりあえず)にすでにあらかじめ埋め込まれている「リア充的なるもの」が要素として介在しないと、ああいう作品世界の〈リアル〉は実はうまく響いてこないんじゃないか、とか、な。


 むしろ、「君の名は」みたいな作品のその世界の方が、ネガな意味での「おたく」っぽい〈リアル〉というか、その「リア充的なるもの」が要素として介在しなくても成り立つ構造があったりせんのだろうか、とかも含めていろいろと要審議継続案件。


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 自分が「君の名は」に対して拭い難く抱いた「いや~な感じ」ってのは、作品の世界が商品として提示されてゆく場合に必然的にまつわってくるはずの開かれ方に乏しい、この場合だとそういう「リア充的なるもの」が要素として創る側に内在化されている気配が薄いってあたりに関わっていたような気がする。

 ワシ、けいおん!好きだったけど、あれ盆栽眺めているイメージなんだよね、ワシ。非現実や人工を楽しむ、的な?

 アニメの主人公たちの家が立派すぎて、こんなもん見てて面白いのか?とはよく思います。

 角川がエヴァを当てる前にやってたメディアミックスとか見てると、イースを遊ぶためにPC-x801買ってもらえるような富裕でかつ頭がよくエッジな人たちをターゲットにしてた節があるので。

 『五等分の花嫁』というアニメを見終えたところなんですが、途中に出てきた林間学校の話が切なかったです。私には無かった青春でした。逆にもっともっと若い頃はこういうのは自分が「これから」取り戻すんだ!って憧れられたんですけれども。#私史観

 主人公が周りを気にせずに部活動に没頭するという意味では「ヒカルの碁」もそうですが、街の碁会所で口うるさいおっさんと絡んだり、会社辞める覚悟でプロ試験受ける社会人と対戦したりと、生ぐさいリアルとの交差も描かれてる。それを排除したキレイな世界は危うくて見てられない。

 俺はリア充だったからけいおんはリアルで分かるとか言ってたジャーナリストを知ってます。

 実写化するとこんな世界観ですかね?

 先生質問です!
 この場でいう「リア充的なるもの」が具体的に何を指してるのか知りたいです。

 ウチの高校の放送部は恵まれてたと思う

 これ、そもそもは「君の名は」を観たあとに感じたもやもやというか、何かあまりタチのよろしくない類の違和感みたいなものが自分の裡にあったところに、たまたま「けいおん!」や「映像研……」が触媒みたいになって、その「いや~な感じ」について少しちゃんと言語化せにゃあかんのかな、と思ってたので最初に箸つけてみました、てな経緯だったんだけれども、Twitter(Xか)的なSNSのありがたいところで、自分などのまず気がついてなかった角度からのレスをあれこれつけてもらって、ああそうか、そんなに単純なたてつけで語っていいものでもないらしいな、これは、程度に立ち止まることができたのは、正直ありがたかった。

 「おたく」っぽい〈リアル〉、とまず雑に言ってしまって、それを「リア充的なるもの」と引き剥がせないところで成りたっているはず、という自分なりの勝手な思い込みありきでTweetしてしまっていたのだが、それがかえっていろんなレスを引き出してくれる糸口になったあたりは怪我の功名かもしれない。

 「おはなし」が何らかの定型を下地につくられていることと、その定型にどのような〈リアル〉の培養基を感受して/できているのか、ということとの間については、やはりそんなに一直線に短絡して説明できるようなものでもないわけで、考えてみりゃあたりまえだし、仮にあらかじめ何らかの原稿として「書く」構えでいるならそのへんも斟酌した文脈をしつらえると思うのだが、ただ、そのへんの短絡もあまり深く考えずにものが言える(正確には「書き込める」だけれども)ことで、口頭での「おしゃべり」に近い流動的なやりとりが闊達に可能になるのなら、それはそれでSNS的「おしゃべり」(まさにchatだ)の利点ではあるんだろうな、とあらためて。

 「高校」の「サークル」「部活」という共同性が、別にアニメだけでもなく、ある時期からこっちのこういう「おはなし」の設定において割と便利な、汎用的な仕掛けとして使い回されるようになっているように感じていて、それはかつての80年代後半から90年代的な、昭和末期から平成にかけてあたりでテレビドラマなどで一気に公認されていった「学校空間的な男女不問の横並びの仲間」的な共同性からの転変という印象を個人的にはずっと持っている。当時のドラマその他においては、それらの共同性がまず設定としてあって、その上に「恋愛」がとにかく重要な要素になっている「人間模様」が描かれることで、何らか「おはなし」としての体裁が整えられるというのがお約束になっていたような記憶がある。まあ、単なる個人的な印象に過ぎないのかもしれないけれども、それはそれとして。

 で、この場合、何が言いたかったのかというと、そういう「仲間」的な共同性というのは、かつての「おたく」のサークル的な「内輪」ありきの盛りあがりの原風景があって、その「部室」的な「関係」と「場」においてのすったもんだというのが「おはなし」になってゆく、でも、そういうたてつけというのは、しかし現実にそれをなぜそこまでかけがえのない切実で〈リアル〉なものとして共同的な記憶のように刷り込まれているのかと考えてみると、そのような共同性を共同性たらしめている〈それ以外〉の部分、「おたく」的な人間関係や馴れ合い含めての「仲間」「内輪」感覚みたいものをあらかじめ疎外してくる側――まあ、ざっくり言うなら「リア充」的な形象がかならず内在化されていないことには、その「内輪」の輝かしさも骨がらみの切実さを伴ってこないのではないか、といったあたりのことではあったのだ。

 なのに、そのへんの機微、「リア充」的なるものからの抑圧なり疎外感なりといったもの自体、現実としてはともかく、そのような「おはなし」空間においてはすでに意識されなくなっているのではないか、違う角度から言えば、その切実でかけがえのない「内輪」の「おたく」的属性あっての濃厚な共同性というものが、「他者」なき楽園、輪郭さだかでないままのゆるふわユートピア的なものにしかなっていないんではないか、というのが問いの本体のつもりではあった。「君の名は」に感じた違和感みたいなもの、というのも、敢えてほぐしてみるなら、まあ、そんな自明の楽園の気配のいたたまれなさ、そこに安住して/できてしまっている登場人物たちや、おそらくそのようなキャラを造形して動かしてしまっている背後の生産点の現場においても同様の多寡のくくり方のようなものが「そういうもの」化して共有されているのではないか、と。

 それに対して、「盆栽眺めているイメージ」という言い方が提示されていたあたりなどは、ああ、そういうこともあり得るのか、という納得が正直、ひとつあったりはした。あらかじめもう「盆栽」であること、つまり「おはなし」としての空間はそれを観たり「読む」を介して消費しているこちら側とのつながりは、少し前まで自明だったはずの「自分ごと」ではなく、またそうでなくても全く構わないものとして楽しまれるようになっているのかな、とかいろいろあらたな問いが枝葉繁らせてゆく契機にはなった。

 まあ、「おたく」という形象がそれなりに現実との対応で使い回されるようになって、ざっともう40年以上、その間そのもの言いの内実も社会状況や情報環境との関わりであたりまえに転変してきているわけで、考えればこれもあたりまえの話ではあるのだが、ただ、それら変数を条件として織り込むこととは少し別なところで、ならばそのように「他者」との関係を遮断して/できてしまうようになった生身のこちら側が、「おはなし」の設定として「だけ」未だにそのようなかつての「おたく」という形象の内実ありきで晶出されてきていたはずの「内輪」の濃密な共同性を小手先で(と敢えて言っておく)使い回せるようになっていること、そしてさらにそのような手口がいまどきの商品市場における「おはなし」消費財のつくられ方として「合理的」な解になっているかもしれないこと、などはまた、「おはなし」と〈いま・ここ〉の〈リアル〉との関係、そしてそれらの裡にいつの時代も避けられない日々生きて暮らしている生身の個々の実存(ああ、古臭い……)における「読む」のありようという決定的な変数の部分を見失わないようにしておくためにも、例によってしぶとく立ち止まってピン留めしておかねばならないことなのだろう、と思っている。