片岡義男と橋本治・メモ

 片岡義男という書き手は、あらかじめ「日本」から遠ざけられた存在でした。デタッチメントの感覚。80年代のあの爛熟した「豊かさ」の極相において、それらを突き放したところでじっと観察できる〈リアル〉を持っていた。だから、カドカワ全盛時のヒットメーカーとして存分に使い回されることができたし、彼自身それを甘受して自分を維持することも可能だった。

 批評の視点、文体なども含めて、ある時期までの橋本治の「論理」に接近しているように感じられます。それは、人間理解とそれに裏打ちされた〈リアル〉への信心の水準が、性的領域に間違いなく関わっているという感覚です。

 性的に「個人」たり得ていない状態を「若さ」と呼ぶならば、そしてその「若さ」が「ホルモンのなせるわざ」に鼓舞され、活発化しているのならば、そのやりきれなさは時に格別なものになります。「若い衆」のチカラ、というのも、そのような状態が共同体の内側でどのように制御され、活用されているのか、ということと関わっているはずです。