生産工程管理の重要性・メモ

【太平洋戦争下における日米航空産業の生産管理技術の懸隔に関する考察 / 前編】
-大量生産ノウハウの蓄積の観点から-


《はじめに》
 太平洋戦争は、航空戦力の優劣が勝敗を決する最も重要なファクターの一つとなった戦いであり、日本も乏しい国力を挙げて優秀な航空機の開発に邁進しました。 その成果の中には欧米の水準と肩を並べるものが少なからず存在し、「物量でアメリカに敗れはしたが、技術面ではそれなりに敢闘した」という言説が随所で聞かれるのも頷けます。しかし、航空戦力の建設とは、優れた飛行機を開発すればそれで終わるものではありません。


 カタログ通りの性能を持つ機体を、効率よく生産出来て初めて、戦備として完整されるのです。換言すれば、設計・開発陣(トップ・エンジニア)の頭脳がいくら優秀でも、生産と品質管理を司る技師(ミドル・エンジニア)のためのノウハウが欠けていれば、全ては画餅に終わります。


 その意味では、設計・開発力に加え、生産・品質管理能力も、航空技術力の根幹なのです。そして、我が国は後者の蓄積が深刻に不足していた、という認識が本投稿のモチーフです。かかる状況で日本の航空産業は如何に戦い、そして敗れたのか。少し長くなりますが、お付き合い頂けますと幸いです。

《劣悪な品質と生産効率》
 予兆は早い段階からありました。開戦前に試作機が完成したにも拘わらず、戦争中期まで量産化できなかった艦爆「彗星」がそれです。画期的新機軸を幾つも投入された同艦爆は、「アウトレンジ攻撃を可能とする長大な航続距離」と「敵戦闘機をも振り切る高速性能」を併せ持つ最新鋭機として、帝國海軍の期待を一身に受けて登場しましたが、独ダイムラー・ベンツ社製DB600エンジンを国産化した「アツタ」エンジンの複雑なメカニズムが災いして生産に深刻な遅延を生じ、前線での整備も困難を極めたため、最終的に性能の劣る日本製エンジンへの換装を余儀なくされました。


 また、戦争後半に満を持して登場した2,000馬力級エンジン、「誉21型」(疾風、紫電改、銀河等に搭載)は、離昇馬力で米軍の「R-3350-53」(B29に搭載)と同等、出力重量比・排気量当り馬力では30%以上凌駕するという、まさに日本の設計・開発技術の粋とも言うべき傑作でしたが、繊細な構造のため製造上の不具合が絶えず、量産品は性能低下が顕著でした。設計者の中川良一氏は、「エンジン馬力はかなり下がっていたのではないだろうか。多分、2割くらいは。」と述べています。不良品率も高く、本エンジンの前線での稼働率は平均で20%に過ぎませんでした。


 「我ニ追イツク グラマン無シ」の電文で有名な艦上偵察機「彩雲」では、量産機の速力低下が顕著でした(28ノット≒52㎞/hダウン)。内訳は、エンジン・排気管の粗製10ノット、主翼の工作不良6ノット、胴体の工作不良4ノット等です。本機種の稼働率は昭和20年には20%を下回っていたと言います。


 まさに、「戦争の進むにつれ、あらゆる部分に故障が続出し、 (中略)ガタの発生、亀裂、折損、漏油等が各部に現れ、殊にエンジンに至っては致命的にも、その信頼性を全く失ってしまった。」(奥平祿郎「戦時中の航空機の整備取扱の状況について」)という恐るべき状況が現実となったのです。


 ここで強調しなくてはならないことがあります。それは、航空機の機体にせよ、エンジンにせよ、設計が誤っていた訳ではないということです。日本の貧弱な生産管理技術では、設計通りの性能を出すに足る品質(加工精度や素材強度)を実現することが出来ませんでした。これこそが問題の所在なのです。


 ここで戦後の米国戦略爆撃調査団のレポートを引用しましょう。

「日本の海軍は開戦当初の80%の作戦有効率(稼働率)を維持できるとしたが、この率は漸次下がって50%となり、ある場合には20%となった。これらの損耗は、仕上の粗雑、原料の粗悪と管理者の貧困の三者の結合によるものである。多くの場合発動機の不調によって、前線に到着したものは三機のうち一機に過ぎなかった。」

 まさに、生産・品質管理技術の未熟がもたらした結末を雄弁に物語って余りあります。


 状況は電気産業においても同様でした。真空管の不良品率の高さのために、日本製の航空無線電話やレーダーの信頼性は損なわれていましたが、東芝のある役員は戦時下の業界団体の会合で、次のように語っています。

「工員、職工の監督と申しますか(中略)そういうふうな意味合いの技術者、これが甚だ不足しておるのであります。或る一つの真空管に注意の主力を注ぎますと、その真空管は見る見るうちに不良率が減る。ところがそれからちょっと主力をそらしますと、またその真空管から不良品が沢山出てきて良品率が非常に少なくなってしまう。(中略)この人間の不足しておることが、確かに全体としての不良率の多い原因の一つになっておるのでありまして…(後略)」(松岡正 「戦時期電気機械工業の弱電分野における技術と技術者」)

 品質と並ぶ日本の航空産業の宿痾は、劣悪な生産性でした詳細は後述することとして、ここでは日米の航空機の生産工数を挙げるに留めます。1944年の零戦のそれは10,000人Hでした(これは、仮に1,000人で分業していたとすると零戦一機を生産するのに一人当り10時間の労働を要するということです)。


 一方、米国のP51「マスタング」は2,700人Hに過ぎません。かかる生産技術の差が、物量の圧倒的懸隔として現れたのです。日本の航空産業は数多の優れた航空機やエンジンを開発していながら、生産・品質管理技術の貧困のために、結局は「質」・「量」共に米国に完敗したと言っても過言ではありません。


《未熟練工が生産を担っていたのは米国も同じ》
 こういう話をすると、決まって「日本では熟練工が徴兵されて、女学生など素人が生産現場に入っていたから…」というエクスキューズが出てくるのですが、そこで終わりにしてはいけません。日米の航空産業の従事者数を比較してみましょう。


 開戦直後(1941年12月)のそれは、日本が31.4万人、米国が34.7万人です。これが、両国の生産が共にピークに達する2年後(1944年)には、日本が121.0万人、米国が129.7万人へと急増しています。労働者の数で見る限り、日米両国の航空産業はほぼ同規模で、よく似た動態を示していると言えましょう。


 この間、機体組立部門における米国の女性労働者数は、2万人弱から、37万人に急増しています(航空工業全体に占める女性労働者の割合は、1943年末の米国が36.6%、同時期の日本が10%、1945年2月には29.7%)。未熟練工が生産を担っていたのは米国も同じなのです。