新体詩と戯曲、その他・メモ

 口語自由詩があたりまえになってゆく過程で、方言をその口語自由詩に反映されてゆくことも一部試みられてくるのですが、ただそれを「朗読」する場合に実際どのように発音発声していたのか、まして標準語の話しことばと混在しているような作品の場合、とかいろいろと……

 散文表現の小説などで方言が反映されてくるのは、会話体が挿入されてきたりであるわけですが、同時に「戯曲」という形式が実はそれら話しことばの反映に案外大きな影響を果たしていたらしく、しかもそれが翻訳の戯曲から、というあたりで、詩と戯曲が同じハコ扱いだったり、とか……

 話し言葉を書き言葉の中に「発見」してゆくことで、それを朗読したり口ずさんだりするのを介してうっかり生身の身体の方も動かす方向に、といった、当時の情報環境がらみでの「解放」過程があったのでは、と。漢詩の詩吟ではない「詩」や、新劇的なせりふなどを実演してゆくことで。

 それらほとんどの下地に「翻訳」のことばと文体があったのだと考えれば、そもそもそういう生身・身体性の「解放」自体が、ある種の「よそごと」のたてつけから始まっていたり、という、まあ、このへんはものすごく大きなお題になってくるわけですが。

 これももともと「新体詩」だったのは知られていますが、なぜか軍隊が「軍歌」として受容して、街頭で歌いながら行軍するのにぶつかった当の新体詩にかぶれてた当時の若い衆が逆にびっくりした、という挿話など、いろいろあらためて興味深い挿話だなぁ、と。…


www.youtube.com

 そういう流れの中で「モノローグ」という形式が、語りとして、また文体として、ジャンルを越えて形成されていったように思ってます。当然、「内面」「心理」の輪郭から「自我」「自意識」のありようにまで影響してくる話にならざるを得ないわけですが。

 それらと「演説/舌」≒「テーブル・スピーチ」とがどのように重なり合い、また別ものとして認識されていったのか、それらと「語りもの」などの演芸・芸能との関係は、とかもうとりとめなくいろいろと……

 「詩」と「戯曲」、そして「童謡」までも、ある時期ある同時代感覚においては、同じハコだったらしいこと。同じ活字の雑誌、同人誌的な媒体に掲載されている限りはフラットに「読まれる」ものとして、そしてまた「朗読される」「うたわれる」ものとして。

 「詩」とは、少なくとも定型詩から口語自由詩の方へとほぐされ拓かれていったそれは、「読む」「うたう」だけでなく「見る」ものでもあったらしいこと。活字に転換され、誌面に印刷され、時に挿画や挿絵が同伴し、さらに雑誌や書籍においては装幀や体裁などまで全部ひっくるめての「見る」媒体として。

 同時に、「口誦さむ」「愛誦する」ものとしての「詩」の属性も、また。小説など「読みもの」文芸は「口誦さむ」ことはまずないけれども、「詩」は「うた」であるゆえ、そのような親しまれ方も含んでいた。浪曲の「さわり」などにも連なるそれら「愛誦」系の親しまれ方の系譜の再検証の必要。

「消費者の横暴」ようやく?

 「消費者の横暴」といった言い方で、戦後の「豊かさ」が醸成していった「市民」意識が、同時に「消費者」意識の暴走につながり、それは〈おんな・こども〉(社会的主体でない/なりきれない「市民」意識)の独裁の様相を呈していった、と長年言うてきたこと、ここにきてようやく通じるようになったかな。

 「おキモチ原理主義」もそうだが、ただ、自分的に面白いというか興味深いのは、「お気持ち」「感情論」的な言い方で自分の中の無自覚な「おキモチ原理主義」をブーストしているような人がたがここにきて可視化されてきていること。

 そういう「お気持ち」「感情論」という語彙の使われ方からすると、自分(たち)の「意見」「提言」はそんな「感情論」でない「論理的」なもので、耳障りな少数異見(と思っている)かもしれないが大事なこと、必要な提言を「敢えて」しているのだ、的な正義感が前提に共有されているらしく。

「詩」と「戯曲」「童話」の関係、その他・メモ

 「詩」と「戯曲」「童話」の関係について。雑誌や同人誌に並べて掲載されるのが普通だった時代、どのように読まれていたのか。活字になったものが読まれる際、朗読されることとの距離感が、いまよりもずっとまだ親しいものだったこと。

 「創作」というくくりが「小説」であったこと。ということは、〈それ以外〉の創作はわざわざ「創作」と名づけられずともよく、それぞれ「詩」であり「戯曲」であり、あるいは「短歌」であり、といった具合にそれまであった既存旧来の分類語彙でくくられていたこと。逆に言えば、「小説」はそれらを越えたところに新たに出てきたジャンルで、だからこそ「創作」とわざわざつけられるようになっていたらしいこと。いわば誌面における綜合創作としての「小説」といったニュアンスも。

 「詩」が「うた」である以上、それらはわざわざ「創作」と一線を引くような意識を持って構えずとも、「うた」だからある程度までは自然にことばになり、また文字にすることができた可能性。しかも、短歌や俳句なども同じ「うた」の範疇ではあったとは言え、それらはまだ定型詩としての縛りがあり、そこから抜け出すための自由化、口語化といった流れは出てきていたにせよ、詩における口語自由詩ほどには闊達なものとは言えなかっただろう。もちろん、新体詩から口語自由詩へと以降する過程で、象徴主義から民衆詩へ、そして「モダン」の内実を自覚的に備えたアバンギャルド詩へ、といった流れは、想像以上に「うた」をさらに身近に、日常に引き寄せ、それはある意味では身体性や動態の方向へと創作の焦点をあててゆくことにもなったと思われる。

 三行詩などのごく短い詩をつくることなどは、「創作」とは思われていなかったかもしれない。

 同じような意味で、「絵画」と「詩」そして「うた」の関係について。

 白樺派が美術や彫刻にも、小説などと同じく眼を開いたという所説は、もう一歩進めたところで、当時の「文学」という語彙にいわゆる文芸作品だけでなく、美術や彫刻、あるいは音楽なども含めた「芸術」一般までも積極的に包摂してゆくという態度として理解してゆくことが必要かもしれないこと。つまり、小説ありきの解釈でなく、それらも全部ある程度フラットで等価な「芸術」として見る視点が、当時の同時代感覚としても妥当だった可能性。

 漢文脈の文語的なリテラシーを基本的に教養としていた世代から、ある程度まで口語的な、あるいは言文一致的なリテラシーをあらかじめネイティヴとして刷り込まれてきた世代へと移行してゆくことで、定型詩から口語自由詩への流れも裏打ちされていたはず。もちろん、それらを支えていた当時の生身の身体性も含めて考えねばならないこと、言うまでもなく。

 大正12年6月25日「三人の会」と称する会合、今風に言えば文化イベントのようなものだが、その内容についての紹介の一節。会の主旨は、中村吉蔵、小川未明秋田雨雀の文学的業績をねぎらうこと。場所は神田駿河台下の中央仏教青年会館楼上。社会主義的傾向の文学者・思想家など200数名の参加者、と記されている。雑誌『種蒔く人』周辺の提唱によって企画された会合だったらしい。司会は前田河広一郎。

 「主賓秋田雨雀の戯曲「国境」、中村吉蔵の「税」、小川未明の童話の一節が朗読され、つぎに秋田雨雀佐々木孝丸らを中心に、新宿中村屋の主人相馬愛蔵の財政的援助によって組織されていた先駆座の余興があり、それも無事にすんで、いよいよテーブル・スピーチに移った。」壺井、p.167 *1

 「中村屋の相馬家が、家の土蔵につくったという先駆座の話が出てくる。この先駆座というのは、相馬家二階で秋田雨雀相馬黒光が開催していた朗読の会をもとに、演劇上演にまで発展したもので、大正12(1923)年4月、第一回上演会が持たれた。そこでは、ストリンドベルヒ「火遊び」と雨雀「手榴弾」が上演されている。」
osumi-syooku.com

 「たびたび述べてきたことだが、大正文学のトータルな実体を追跡してみると、小説家がしばしば戯曲に手を染め、各自の代表作ともいい得る作品を書いているという事実である。大正文学は小説と演劇との蜜月時代と称しても決してオーバアな表現ではない。」(紅野敏郎)
odamitsuo.hatenablog.com

 たとえば、この会合のこの場に、舞踊や音楽なども混じっていてもまったく違和感はない。これまでこちらが普通に考え、想像していたよりもはるかに、当時の「文学」周辺は生身の身体性、上演性に対して開かれた空間だったらしい。それは、その少し前、明治末年から大正初期にかけての浪曲が政治的な演説会などにあたりまえに並列的に盛り込まれていたことなどと、おそらく地続きの同時代性でもあっただろう。

 散文詩と小説の間。あるいは、散文詩といわゆる随筆、随想、小説などの間。そもそも、散文と詩の間、という古くて新しい、そしておそらくは答えが明確に絞り得ない問いの方にも、また。

 イメージの飛躍がどのように読み手の裡に宿り得るのか、それが作者の想定したものとどれくらい重なり得るのか。

*1:「国境」は「国境の夜」のことだろう。

エリジウムの作られ方・断片

 暇空氏のやっていることは「ヘイト」「誹謗中傷」であるという前提のcolabo(および支援界隈)側と、住民監査請求はcolaboの公金処理等の疑惑解明のための「市民の正当な権利」という前提の暇空氏側との間で、見えている/見たい風景が全く違うわけで。

 colaboの公金処理等の疑惑解明は「ヘイト」「誹謗中傷」の前に棄却される、というその理屈は、「ポリコレ」はあらゆる法的基準を超越して優先されるべき原理である、といういまどきのそういう人がたおよび界隈の教義であり、カルト化・蠱毒化をわかりやすく世間の前に可視化してくれたところはある。

 難儀なのは、そのカルト化・蠱毒化の教義を無条件に「正しいもの」として、自然に疑いなく「そういうもの」化してしまっている言語空間(まさにエリジウムなのだが)に、マスコミや学会、行政や政治家などの世間も呑み込まれていて、それらが無自覚・無意識な共犯として事態を現出しているところかと。

 いつ頃からどういう過程でそういう言語空間が形成されていって、それら業界の中の人たちが自然に「そういうもの」として呑み込まれていったのか、という問題。言語空間が閉じてゆき蠱毒化・エコーチェンバー化してゆく仕組みについて。特に「学校」「教育」を介した空間を重要なターミナルとして。

 と同時にもちろん、もう一方でのいわゆる情報環境、合焦されやすいいわゆるマスメディアのみならず広義の情報媒体を介して日常の生活世界を編制してゆく「ことば」の質、およびそれらを日常的に受容し受け止めてゆく過程で醸成されていった意識や感覚、価値観その他の問題も、共に。

 別の角度から言うなら、これは「戦後」の歴史民俗的過程とそこに宿ってきた「民主主義(的なるもの)」の転変も、その背景に想定しておかねばならない問いでもあり。「個人」の「自由」、「男女平等」その他、「戦後」「民主主義」のたてつけの裡に70年以上かけて醸成、共有されていった徳目群の現在。

 

「戦争」のジェンダーギャップ・断片

 これ、例によってずっと前から言うとることでもあるけど……

 「戦争」って語彙を使う時に想定される内実、イメージでも何でも、それって、おとことおんなで実はまるで別ものだったりするところ、少なくとも本邦「戦後」の過程ではずっとあり続けてきているとおも。

 「特攻」でも「玉砕」でも、あるいは勝ちいくさで相手方を「全滅」させたり「占領」したり、でも同じことで、自分が軍隊という組織・集団の一部として、まさに「当事者」wとしていることを、自分ごとで考えられる限界みたいなところが必ずあるとおも。良し悪しとはひとまず別に。

 それを埋め合わせるために「夫」や「子ども」、果ては「教え子」などをダミーにして「当事者」身ぶりのコスプレやってきたようなところ、あるんだとおも、「戦後」本邦大衆社会状況下での「戦争」語り(概ね「反戦平和」「護憲」的脈絡の大文字に収斂されてきたわけだが)の「おはなし」話法。

 ある時期からこっちの本邦フェミニズムなりジェンダーなんちゃらなりの言説って、流布され受容されていったその下地のある部分には、そういうダミー的な存在介した「当事者」身ぶりのコスプレを、全部まるっと「おんな」属性でひとまとめにする/できる最終兵器呪文みたいな意味あいもあったとおも。

 そりゃ「おんな」属性最強、その「おキモチ」無双、にもうっかりなってしまうわなぁ、と。

「大学」のあやしい人・メモ

 昨今の「大学」という場に、年齢不詳、学生なのか何なのかすらあやしい、でも何となくそこらにいて妙な存在感はあるから、みんな「ああ、あの人」程度の認知はしている、といったような人物は果して存在しているのだらうか。

 教室や校舎の中はうっかり立ち入れなくなっているみたいだし、ましてモグリで聴講などできないらしく。といってサークルや部活の類にしても、コロナ禍もあり低調に推移、何より「たまり場」となる場所が失われていると共に、そのような「たまる」ことをすでに必要としない生身がデフォに、のようで。

 「院生」なんて、そういう得体の知れない存在の一部でしかなくて、何の酔狂か知らないけれども、まだ就職もせず、社会に出ないでこの「大学」に「残ってる」と。

 講座や研究室という制度がきっちり稼動していた分野や学科、学部はいざ知らず、学部生の頃から双葉より何とやらで先生の覚えめでたく、キミは大学に残りたまえ、くらいの待遇で「入院」する、そんなまっとうな(だろう)人がたの経歴の成り立ちは、おそらく国立大のそれもごく一部で「そういうもの」化…

 理科系はいざ知らず、いわゆる人文社会系≒「文科系」の「大学」の「院生」なんざ概ねそんなもん、モラトリアム(そんなもの言いはまだ知られてなかったが)の煮凝りで箸にも棒にもかからん物件、実家住まいは別格で、そうでないのは塾や予備校講師、出版まわりの下請け雑役の類で食いつなぐ日々。

在学中、留年しっぱなしで入り直したとかいう先輩いました。あの人幾つだったんだろう。

 そういう得体の知れないのが必ず混じってた、そういうのが「大学」だったという記憶。そもそも学生ですらないのも含めて。

かつてどの大学も「裏技」を使えば24〜32年間在籍でき、しかも1970年代前半の入学なら学費も激安だったわけで、そういう時代だからこそ存在しえたんじゃないですかね。うちの店の常連客にも京大を12年かけて卒業した人がおりました。

 ああ、そういう事情や背景はあったでしょうね、確実に。国立大学の学費が安くて、だから割と気楽に留年その他できただろうというのは、おっしゃる通りだと思います。

いわゆる夜間部・2部がギリギリ残っててた20年前ぐらいがそういうのを見たことがある最後の学生じゃないかな…。

日大芸術学部には8年生がザラにいました(90年代当時)

何かのブンガク、埼玉へ

「こちらの物件は築年数も浅いし、なんせ常盤中の学区内ですからね。あそこのお子さんはみんな優秀だから、中学受験なんてしなくても大丈夫ですよ」


不動産仲介業者がうやうやしく説明する中、妻が嬉しそうに対応する。


「うちは学区はあまりこだわってないの、小学校から私立だから」
「あ、そうでしたか、大変失礼しました」
「スクールバスが北浦和駅からだから、駅から近いと嬉しいんだけど」
「承知しました、ではこちらの物件はいかがでしょうか」


業者と妻の会話をぼうっと聞きながら、自分の人生における自己決定権がとっくの昔に喪失していたことを改めて思い知る。住むところも、子供の学校も、気がつけば勝手に決まっていく。


小学校受験。そんなものに手を出さなければ、吉祥寺からさいたまに引っ越す必要なんてなかったはずなのに――。


「幼稚園の浩くんのお姉ちゃん、早実に受かったんだって!大学までエスカレーターで早稲田に行けるんだって、羨ましいわよね」
二年前、妻から聞いた何気ない一言。この会話を無視しておけば、今のような事態を招くことはなかった。悔やんでも悔やみきれないが、後の祭りだ。


「それでね、玲奈もお教室、通わせてみない? 浩くんのママに聞いたんだけど、別に受験させなくても、マナーとか知識とかが身につくんだって」


ジャック吉祥寺教室の年中クラスの月謝は月5万円弱。子供の習い事にしては高いだろう、と思ったが、「幼稚園のお友達はみんな通ってるし」と押し通された。思えば、既に妻の術中にハマっていた。


お教室に通うようになり、食後の食器を自分から片付け、洗濯物を一生懸命たたむ娘の姿は微笑ましくもあり、応援したいという気持ちはあった。しかし、当時の自分は知らなかった。小学校受験の世界において、月5万円はあくまでスタート地点でしかないということを。


20代後半、夫の転勤のせいで会社を辞めさせられたという被害者意識だけをつのらせ、東京に戻ってからも「いまさら非正規として働く気はない」という妻が教育に熱中すれば熱中するほど、課金額は積み上がった。模試、冬期講習会、願書の添削サービス――。知らないうちに積み重なっていく請求書、そして減り続ける一方の家族用口座の残高。


専業主婦の妻は知らない。その費用を捻出するために、自分がどれだけ会社で頭を下げ、胃を痛めているかを。teamsもろくに使えない上司をデジタル介護している間、手塩にかけて育てた若手は判を押したようにコンサルに転職する。オープンワークで調べた、元後輩たちが働く会社の平均給料は... 続きは愛と正義と勇気のメディア、みんかぶ
@minnanokabusiki
で!

https://mag.minkabu.jp/mag-sogo/22005/?membership=1