エリジウム的なるもの、の経緯来歴・メモ

 世間的な評判や評価、風評なども含めたゆるふわな風向きだけに過敏に反応しなければおのれの地位が保てないと感じる――要はポピュリズムなんだろうが、そういう心性にとって、広報・宣伝に特化したように見える情報業者は皮膚のように一体化して貼りつくものになっているらしい。

 いわゆる広告代理店その他の「広報・宣伝」関連の業者やコンサル、エージェントの類から、より抽象化したところではいまどきの情報環境、web介してのやりとりが24時間化しているそれ自体が、すでに自意識の皮膚や神経、リンパ節のように疑似生理的な水準のはたらきを持つようになっている印象。

 「政治」も「経済」も「法」も、これまでそのような語彙と概念とで制御してきたつもりのものが、すでにそれらを広く覆っている情報環境のありようの側に癒着させられてしまっていて、その「広報・宣伝」的な性質を本質として持ってしまったいまどき情報環境の疑似生理的・生物的なありようこそが「政治」も「経済」も「法」も、もちろん「文化」「社会」の水準をも含めた「国家」「国体」をも、先廻りして規定するようになっている可能性。

 本邦的な「新自由主義」的なるもの、その脈絡での「グローバリズム」的なるもの、の受容について。それらと、昨今の蠱毒エリジウム的言語空間ネイティヴ「勝ち組」的なるもの、との通底、およびその思想史的経緯来歴について。

 近世以来の漢文・漢学的脈絡の「教養」を前提に良くも悪くもしていた世代の「論理」や「概念」のハンドリングの仕方の中に、昨今のそういう「新自由主義」的「グローバリズム」的蠱毒エリジウムな言語空間とよく似た妙な「論理」性、硬直した「正しさ」大正義的なものが宿っていた可能性。

 たとえば、そういう意味からの、北一輝の読み直しの試み、とか。

「青春」ということ・メモ

 文字の創作文芸としては、石坂洋次郎石原慎太郎あたりの線で「戦後」の「青春」の輪郭が定まっていったところはあるんだろうが、でもそれは戦前のそれともズレてるし、「学校」(共学の)が補助線になってもいるわけで。それが邦画全盛時代にある種ミーム的にも複製、定型化されていった過程。

 これももう口にされず、文字としても使われなくなっているもの言いのひとつだけれども、「青春」というやつ、あれもいまどき風に言うならホモソ&ミソジニー的空間で初めて何か中身あるように感じられる語彙ないしはコピーだったのかもしれんな、とふと。

 「友情」というのも同様に。で、そういう空間において「恋愛」もまた、ある時期までは中身を盛られていたはずで、でも「恋愛」は未だに語彙としては使い回されているけれども、その内実はかつてのそれと実は相当別ものになっているのだろう、と。それは、たとえば「少女」などと同じような形で。

 文字の創作文芸としては、石坂洋次郎石原慎太郎あたりの線で「戦後」の「青春」の輪郭が定まっていったところはあるんだろうが、でもそれは戦前のそれともズレてるし、「学校」(共学の)が補助線になってもいるわけで。それが邦画全盛時代にある種ミーム的にも複製、定型化されていった過程。

 うろ覚えでいま、すぐに手もとで確認する手立てもないが、確か、つかこうへいが「青春」という仮題での芝居の構想をちらっと書いていたような記憶がある。実現していないと思うんだが、もしかしたら別の題で舞台化されたり、何か小説になったりしていたんだっけか。

「詩人」の描写、あるいは解像力

 ここ3年半ほどの間、手もとにある古書雑書の類と、そこから派生するとりとめない問いに関して求めて読むものをベースにして、あれこれものを考えることしかできなくなっているけれども、そんな老害隠居化石脳の道行きでも、いくつか何となく焦点となるお題のようなものがいくつかできてきていたりはする。そんな中のひとつにこのところ、いわゆる「詩」に関するもの、本邦の「近代詩」「現代詩」と呼ばれてきたような領分に関するあれこれも含まれている。

 とは言うものの、そもそも「詩」なんてのにまともに向き合ってきたことは正直、ほとんどなかった。それは「文学」や「美術」などと同じく、もっと言えば「芸術」ひとくくりにされるような領分そのものに対しての、引け目やらうしろめたさやらコンプレックスやらが一緒くたにないまぜになったような、自分のある種のあかんところ、だったようにも思う。*1

 で、そんな次第で、いわゆる「詩人」とされてきた人がたの自伝なり評伝なり回想録なりも、あらためて拾って読んでみたりしているのだが、いわゆる「作家」「小説家」「文学者」などと呼ばれてきたような人がたのそれらよりも、何というか、素朴にオモシロい細部や断片が濃密に含まれていることを、結構楽しんでいたりする。

*1:そのへんの事情を腑分けしてみれば、たとえば、こんな感じに。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

とんねるず、の衝撃と記憶・メモ


 前にも書いたが、とんねるずの登場は1984年当時業界では革新的だった。それまでにないお笑いタレントなのにスタイリストが付いてカラフルなK-FACTORYに身を包んだ二人は高身長でスポーツの背景があり、ルックスも華があった。「夜ヒット」では衣装で光GENJIに対抗意識を燃やすなど、これまでにないポジションを獲得した。反応したのがまず吉本で、サッカーをボクシングを背景に上背のあるコンビ圭修が1986年に登場し対抗させようとした。次にジャニーズ。1988年にデビューさせたSMAPは「夢がMORI MORI」のプロデューサーに「ドリフターズにしてくれ」と預けた。


 この流れはKinKi Kidsをはじめアイドルでも日常的に冗談を言えるスキルが求められ、ナベプロも1985年に見た目がそこそこで「芸人の真似事」が出来るABブラザーズを、萩本欽一膝下からCHA-CHAが1988年にデビューし、粗製乱造の様相を呈していた。もしかするとアイドル誌「Duet」に出ていたたけし軍団の影響もわずかにあった可能性はある。1990年代に入るとTV局もタレント排出に関わろうとCXが『ゴールドラッシュ!』をスタートすると早くも末期の状況を迎え、この番組から出たエンタメ系タレントは現在ほぼ残存してない。


 この時期俺が気にしていたのは1980年からの『お笑いスター誕生!!』だった。オーディション番組というより、すでに事務所所属の芸人にスポットを当てる役割が強かったように思えるが、吉本を離れ東京でチャンスを伺っていたB&Bが初代グランプリ獲得者に。とんねるずもグランプリを獲得していた。そこに前にも書いたが、とんねるずの登場は1984年当時業界では革新的だった。それまでにないお笑いタレントなのにスタイリストが付いてカラフルなK-FACTORYに身を包んだ二人は高身長でスポーツの背景があり、ルックスも華があった。「夜ヒット」では衣装で光GENJIに対抗意識を燃やすなど、これまでにないポジションを獲得した。反応したのがまず吉本で、サッカーをボクシングを背景に上背のあるコンビ圭修が1986年に登場し対抗させようとした。次にジャニーズ。1988年にデビューさせたSMAPは「夢がMORI MORI」のプロデューサーに「ドリフターズにしてくれ」と預けた。

新体詩と戯曲、その他・メモ

 口語自由詩があたりまえになってゆく過程で、方言をその口語自由詩に反映されてゆくことも一部試みられてくるのですが、ただそれを「朗読」する場合に実際どのように発音発声していたのか、まして標準語の話しことばと混在しているような作品の場合、とかいろいろと……

 散文表現の小説などで方言が反映されてくるのは、会話体が挿入されてきたりであるわけですが、同時に「戯曲」という形式が実はそれら話しことばの反映に案外大きな影響を果たしていたらしく、しかもそれが翻訳の戯曲から、というあたりで、詩と戯曲が同じハコ扱いだったり、とか……

 話し言葉を書き言葉の中に「発見」してゆくことで、それを朗読したり口ずさんだりするのを介してうっかり生身の身体の方も動かす方向に、といった、当時の情報環境がらみでの「解放」過程があったのでは、と。漢詩の詩吟ではない「詩」や、新劇的なせりふなどを実演してゆくことで。

 それらほとんどの下地に「翻訳」のことばと文体があったのだと考えれば、そもそもそういう生身・身体性の「解放」自体が、ある種の「よそごと」のたてつけから始まっていたり、という、まあ、このへんはものすごく大きなお題になってくるわけですが。

 これももともと「新体詩」だったのは知られていますが、なぜか軍隊が「軍歌」として受容して、街頭で歌いながら行軍するのにぶつかった当の新体詩にかぶれてた当時の若い衆が逆にびっくりした、という挿話など、いろいろあらためて興味深い挿話だなぁ、と。…


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 そういう流れの中で「モノローグ」という形式が、語りとして、また文体として、ジャンルを越えて形成されていったように思ってます。当然、「内面」「心理」の輪郭から「自我」「自意識」のありようにまで影響してくる話にならざるを得ないわけですが。

 それらと「演説/舌」≒「テーブル・スピーチ」とがどのように重なり合い、また別ものとして認識されていったのか、それらと「語りもの」などの演芸・芸能との関係は、とかもうとりとめなくいろいろと……

 「詩」と「戯曲」、そして「童謡」までも、ある時期ある同時代感覚においては、同じハコだったらしいこと。同じ活字の雑誌、同人誌的な媒体に掲載されている限りはフラットに「読まれる」ものとして、そしてまた「朗読される」「うたわれる」ものとして。

 「詩」とは、少なくとも定型詩から口語自由詩の方へとほぐされ拓かれていったそれは、「読む」「うたう」だけでなく「見る」ものでもあったらしいこと。活字に転換され、誌面に印刷され、時に挿画や挿絵が同伴し、さらに雑誌や書籍においては装幀や体裁などまで全部ひっくるめての「見る」媒体として。

 同時に、「口誦さむ」「愛誦する」ものとしての「詩」の属性も、また。小説など「読みもの」文芸は「口誦さむ」ことはまずないけれども、「詩」は「うた」であるゆえ、そのような親しまれ方も含んでいた。浪曲の「さわり」などにも連なるそれら「愛誦」系の親しまれ方の系譜の再検証の必要。

「消費者の横暴」ようやく?

 「消費者の横暴」といった言い方で、戦後の「豊かさ」が醸成していった「市民」意識が、同時に「消費者」意識の暴走につながり、それは〈おんな・こども〉(社会的主体でない/なりきれない「市民」意識)の独裁の様相を呈していった、と長年言うてきたこと、ここにきてようやく通じるようになったかな。

 「おキモチ原理主義」もそうだが、ただ、自分的に面白いというか興味深いのは、「お気持ち」「感情論」的な言い方で自分の中の無自覚な「おキモチ原理主義」をブーストしているような人がたがここにきて可視化されてきていること。

 そういう「お気持ち」「感情論」という語彙の使われ方からすると、自分(たち)の「意見」「提言」はそんな「感情論」でない「論理的」なもので、耳障りな少数異見(と思っている)かもしれないが大事なこと、必要な提言を「敢えて」しているのだ、的な正義感が前提に共有されているらしく。

「詩」と「戯曲」「童話」の関係、その他・メモ

 「詩」と「戯曲」「童話」の関係について。雑誌や同人誌に並べて掲載されるのが普通だった時代、どのように読まれていたのか。活字になったものが読まれる際、朗読されることとの距離感が、いまよりもずっとまだ親しいものだったこと。

 「創作」というくくりが「小説」であったこと。ということは、〈それ以外〉の創作はわざわざ「創作」と名づけられずともよく、それぞれ「詩」であり「戯曲」であり、あるいは「短歌」であり、といった具合にそれまであった既存旧来の分類語彙でくくられていたこと。逆に言えば、「小説」はそれらを越えたところに新たに出てきたジャンルで、だからこそ「創作」とわざわざつけられるようになっていたらしいこと。いわば誌面における綜合創作としての「小説」といったニュアンスも。

 「詩」が「うた」である以上、それらはわざわざ「創作」と一線を引くような意識を持って構えずとも、「うた」だからある程度までは自然にことばになり、また文字にすることができた可能性。しかも、短歌や俳句なども同じ「うた」の範疇ではあったとは言え、それらはまだ定型詩としての縛りがあり、そこから抜け出すための自由化、口語化といった流れは出てきていたにせよ、詩における口語自由詩ほどには闊達なものとは言えなかっただろう。もちろん、新体詩から口語自由詩へと以降する過程で、象徴主義から民衆詩へ、そして「モダン」の内実を自覚的に備えたアバンギャルド詩へ、といった流れは、想像以上に「うた」をさらに身近に、日常に引き寄せ、それはある意味では身体性や動態の方向へと創作の焦点をあててゆくことにもなったと思われる。

 三行詩などのごく短い詩をつくることなどは、「創作」とは思われていなかったかもしれない。

 同じような意味で、「絵画」と「詩」そして「うた」の関係について。

 白樺派が美術や彫刻にも、小説などと同じく眼を開いたという所説は、もう一歩進めたところで、当時の「文学」という語彙にいわゆる文芸作品だけでなく、美術や彫刻、あるいは音楽なども含めた「芸術」一般までも積極的に包摂してゆくという態度として理解してゆくことが必要かもしれないこと。つまり、小説ありきの解釈でなく、それらも全部ある程度フラットで等価な「芸術」として見る視点が、当時の同時代感覚としても妥当だった可能性。

 漢文脈の文語的なリテラシーを基本的に教養としていた世代から、ある程度まで口語的な、あるいは言文一致的なリテラシーをあらかじめネイティヴとして刷り込まれてきた世代へと移行してゆくことで、定型詩から口語自由詩への流れも裏打ちされていたはず。もちろん、それらを支えていた当時の生身の身体性も含めて考えねばならないこと、言うまでもなく。

 大正12年6月25日「三人の会」と称する会合、今風に言えば文化イベントのようなものだが、その内容についての紹介の一節。会の主旨は、中村吉蔵、小川未明秋田雨雀の文学的業績をねぎらうこと。場所は神田駿河台下の中央仏教青年会館楼上。社会主義的傾向の文学者・思想家など200数名の参加者、と記されている。雑誌『種蒔く人』周辺の提唱によって企画された会合だったらしい。司会は前田河広一郎。

 「主賓秋田雨雀の戯曲「国境」、中村吉蔵の「税」、小川未明の童話の一節が朗読され、つぎに秋田雨雀佐々木孝丸らを中心に、新宿中村屋の主人相馬愛蔵の財政的援助によって組織されていた先駆座の余興があり、それも無事にすんで、いよいよテーブル・スピーチに移った。」壺井、p.167 *1

 「中村屋の相馬家が、家の土蔵につくったという先駆座の話が出てくる。この先駆座というのは、相馬家二階で秋田雨雀相馬黒光が開催していた朗読の会をもとに、演劇上演にまで発展したもので、大正12(1923)年4月、第一回上演会が持たれた。そこでは、ストリンドベルヒ「火遊び」と雨雀「手榴弾」が上演されている。」
osumi-syooku.com

 「たびたび述べてきたことだが、大正文学のトータルな実体を追跡してみると、小説家がしばしば戯曲に手を染め、各自の代表作ともいい得る作品を書いているという事実である。大正文学は小説と演劇との蜜月時代と称しても決してオーバアな表現ではない。」(紅野敏郎)
odamitsuo.hatenablog.com

 たとえば、この会合のこの場に、舞踊や音楽なども混じっていてもまったく違和感はない。これまでこちらが普通に考え、想像していたよりもはるかに、当時の「文学」周辺は生身の身体性、上演性に対して開かれた空間だったらしい。それは、その少し前、明治末年から大正初期にかけての浪曲が政治的な演説会などにあたりまえに並列的に盛り込まれていたことなどと、おそらく地続きの同時代性でもあっただろう。

 散文詩と小説の間。あるいは、散文詩といわゆる随筆、随想、小説などの間。そもそも、散文と詩の間、という古くて新しい、そしておそらくは答えが明確に絞り得ない問いの方にも、また。

 イメージの飛躍がどのように読み手の裡に宿り得るのか、それが作者の想定したものとどれくらい重なり得るのか。

*1:「国境」は「国境の夜」のことだろう。