エリジウムの作られ方・断片

 暇空氏のやっていることは「ヘイト」「誹謗中傷」であるという前提のcolabo(および支援界隈)側と、住民監査請求はcolaboの公金処理等の疑惑解明のための「市民の正当な権利」という前提の暇空氏側との間で、見えている/見たい風景が全く違うわけで。

 colaboの公金処理等の疑惑解明は「ヘイト」「誹謗中傷」の前に棄却される、というその理屈は、「ポリコレ」はあらゆる法的基準を超越して優先されるべき原理である、といういまどきのそういう人がたおよび界隈の教義であり、カルト化・蠱毒化をわかりやすく世間の前に可視化してくれたところはある。

 難儀なのは、そのカルト化・蠱毒化の教義を無条件に「正しいもの」として、自然に疑いなく「そういうもの」化してしまっている言語空間(まさにエリジウムなのだが)に、マスコミや学会、行政や政治家などの世間も呑み込まれていて、それらが無自覚・無意識な共犯として事態を現出しているところかと。

 いつ頃からどういう過程でそういう言語空間が形成されていって、それら業界の中の人たちが自然に「そういうもの」として呑み込まれていったのか、という問題。言語空間が閉じてゆき蠱毒化・エコーチェンバー化してゆく仕組みについて。特に「学校」「教育」を介した空間を重要なターミナルとして。

 と同時にもちろん、もう一方でのいわゆる情報環境、合焦されやすいいわゆるマスメディアのみならず広義の情報媒体を介して日常の生活世界を編制してゆく「ことば」の質、およびそれらを日常的に受容し受け止めてゆく過程で醸成されていった意識や感覚、価値観その他の問題も、共に。

 別の角度から言うなら、これは「戦後」の歴史民俗的過程とそこに宿ってきた「民主主義(的なるもの)」の転変も、その背景に想定しておかねばならない問いでもあり。「個人」の「自由」、「男女平等」その他、「戦後」「民主主義」のたてつけの裡に70年以上かけて醸成、共有されていった徳目群の現在。

 

「戦争」のジェンダーギャップ・断片

 これ、例によってずっと前から言うとることでもあるけど……

 「戦争」って語彙を使う時に想定される内実、イメージでも何でも、それって、おとことおんなで実はまるで別ものだったりするところ、少なくとも本邦「戦後」の過程ではずっとあり続けてきているとおも。

 「特攻」でも「玉砕」でも、あるいは勝ちいくさで相手方を「全滅」させたり「占領」したり、でも同じことで、自分が軍隊という組織・集団の一部として、まさに「当事者」wとしていることを、自分ごとで考えられる限界みたいなところが必ずあるとおも。良し悪しとはひとまず別に。

 それを埋め合わせるために「夫」や「子ども」、果ては「教え子」などをダミーにして「当事者」身ぶりのコスプレやってきたようなところ、あるんだとおも、「戦後」本邦大衆社会状況下での「戦争」語り(概ね「反戦平和」「護憲」的脈絡の大文字に収斂されてきたわけだが)の「おはなし」話法。

 ある時期からこっちの本邦フェミニズムなりジェンダーなんちゃらなりの言説って、流布され受容されていったその下地のある部分には、そういうダミー的な存在介した「当事者」身ぶりのコスプレを、全部まるっと「おんな」属性でひとまとめにする/できる最終兵器呪文みたいな意味あいもあったとおも。

 そりゃ「おんな」属性最強、その「おキモチ」無双、にもうっかりなってしまうわなぁ、と。

「大学」のあやしい人・メモ

 昨今の「大学」という場に、年齢不詳、学生なのか何なのかすらあやしい、でも何となくそこらにいて妙な存在感はあるから、みんな「ああ、あの人」程度の認知はしている、といったような人物は果して存在しているのだらうか。

 教室や校舎の中はうっかり立ち入れなくなっているみたいだし、ましてモグリで聴講などできないらしく。といってサークルや部活の類にしても、コロナ禍もあり低調に推移、何より「たまり場」となる場所が失われていると共に、そのような「たまる」ことをすでに必要としない生身がデフォに、のようで。

 「院生」なんて、そういう得体の知れない存在の一部でしかなくて、何の酔狂か知らないけれども、まだ就職もせず、社会に出ないでこの「大学」に「残ってる」と。

 講座や研究室という制度がきっちり稼動していた分野や学科、学部はいざ知らず、学部生の頃から双葉より何とやらで先生の覚えめでたく、キミは大学に残りたまえ、くらいの待遇で「入院」する、そんなまっとうな(だろう)人がたの経歴の成り立ちは、おそらく国立大のそれもごく一部で「そういうもの」化…

 理科系はいざ知らず、いわゆる人文社会系≒「文科系」の「大学」の「院生」なんざ概ねそんなもん、モラトリアム(そんなもの言いはまだ知られてなかったが)の煮凝りで箸にも棒にもかからん物件、実家住まいは別格で、そうでないのは塾や予備校講師、出版まわりの下請け雑役の類で食いつなぐ日々。

在学中、留年しっぱなしで入り直したとかいう先輩いました。あの人幾つだったんだろう。

 そういう得体の知れないのが必ず混じってた、そういうのが「大学」だったという記憶。そもそも学生ですらないのも含めて。

かつてどの大学も「裏技」を使えば24〜32年間在籍でき、しかも1970年代前半の入学なら学費も激安だったわけで、そういう時代だからこそ存在しえたんじゃないですかね。うちの店の常連客にも京大を12年かけて卒業した人がおりました。

 ああ、そういう事情や背景はあったでしょうね、確実に。国立大学の学費が安くて、だから割と気楽に留年その他できただろうというのは、おっしゃる通りだと思います。

いわゆる夜間部・2部がギリギリ残っててた20年前ぐらいがそういうのを見たことがある最後の学生じゃないかな…。

日大芸術学部には8年生がザラにいました(90年代当時)

何かのブンガク、埼玉へ

「こちらの物件は築年数も浅いし、なんせ常盤中の学区内ですからね。あそこのお子さんはみんな優秀だから、中学受験なんてしなくても大丈夫ですよ」


不動産仲介業者がうやうやしく説明する中、妻が嬉しそうに対応する。


「うちは学区はあまりこだわってないの、小学校から私立だから」
「あ、そうでしたか、大変失礼しました」
「スクールバスが北浦和駅からだから、駅から近いと嬉しいんだけど」
「承知しました、ではこちらの物件はいかがでしょうか」


業者と妻の会話をぼうっと聞きながら、自分の人生における自己決定権がとっくの昔に喪失していたことを改めて思い知る。住むところも、子供の学校も、気がつけば勝手に決まっていく。


小学校受験。そんなものに手を出さなければ、吉祥寺からさいたまに引っ越す必要なんてなかったはずなのに――。


「幼稚園の浩くんのお姉ちゃん、早実に受かったんだって!大学までエスカレーターで早稲田に行けるんだって、羨ましいわよね」
二年前、妻から聞いた何気ない一言。この会話を無視しておけば、今のような事態を招くことはなかった。悔やんでも悔やみきれないが、後の祭りだ。


「それでね、玲奈もお教室、通わせてみない? 浩くんのママに聞いたんだけど、別に受験させなくても、マナーとか知識とかが身につくんだって」


ジャック吉祥寺教室の年中クラスの月謝は月5万円弱。子供の習い事にしては高いだろう、と思ったが、「幼稚園のお友達はみんな通ってるし」と押し通された。思えば、既に妻の術中にハマっていた。


お教室に通うようになり、食後の食器を自分から片付け、洗濯物を一生懸命たたむ娘の姿は微笑ましくもあり、応援したいという気持ちはあった。しかし、当時の自分は知らなかった。小学校受験の世界において、月5万円はあくまでスタート地点でしかないということを。


20代後半、夫の転勤のせいで会社を辞めさせられたという被害者意識だけをつのらせ、東京に戻ってからも「いまさら非正規として働く気はない」という妻が教育に熱中すれば熱中するほど、課金額は積み上がった。模試、冬期講習会、願書の添削サービス――。知らないうちに積み重なっていく請求書、そして減り続ける一方の家族用口座の残高。


専業主婦の妻は知らない。その費用を捻出するために、自分がどれだけ会社で頭を下げ、胃を痛めているかを。teamsもろくに使えない上司をデジタル介護している間、手塩にかけて育てた若手は判を押したようにコンサルに転職する。オープンワークで調べた、元後輩たちが働く会社の平均給料は... 続きは愛と正義と勇気のメディア、みんかぶ
@minnanokabusiki
で!

https://mag.minkabu.jp/mag-sogo/22005/?membership=1

翻訳フィルターへの疑念・メモ

 今回のKADOKAWA改めCHIKIKAWAの件で、出版中止それ自体とは別レイヤーで危惧してることがあるのでちょっとかいとく。*1


 どうも、学者等が都合よく言語を切り替えて日本向けの情報を遮断したり意味をずらしたりして英語に疎い人々が接する情報をコントロールしているのでは?って疑問である


 先日、おきさやかが英語で人様を非人道呼ばわりし言われた側が反発するや、おき及びおき派アカデミア界隈が「inhumanitiesは非・人文系」というおよそ単語の意味を無視した弁解と擁護を繰り広げたのは記憶に新しい。


 あれで切り抜けられると思っていたなら(手元のスマホで単語の意味くらい検索できるのに)どあほうだと思うが、あの様子を見れば、学者やインテリは下々の者らには英語など読めなかとうと思って意味を歪めて伝えているのではないかという疑念は当然生じる


 海外の議論や海外で発生した新しい概念を国内に紹介するのはなんのかんのいうてその分野に通じた学者や技術者で、彼らが書籍その他のメディアを用いて一般人に伝えるという構造はいまだ根強い。その流れの国内の上流の方に疑わしい奴がいるとなると、汚染の度合いが深刻では


 汚染もだけど、意図的に都合の悪いものを堰き止めていることも当然疑わなければならなくなる。


 出版不況で本自体減っているし翻訳の数はマジで減ってるので、日本国内の日本語での情報の寡占進んでたりしない?と心配になってくるわけで、そこに偏向した思想の持ち主が入り込んでたらやべーじゃねーの


 「じゃあ海外の文献や記事を英語とか仏語とかで読めばいいじゃん」というのは一つの答えだけども。
いやしかし江戸末期の志ある変態的翻訳パウア持ちが自国の言語で学び研究できる環境を整えてくれたおかげでうちの国は独立を維持できたし経済発展もしたし、独自に技術開発もできたわけで、


 他の植民地化された地域と見比べると、翻訳によって母国語を守りつつ広く一般の人々に知識を広めるということってめちゃくちゃ価値があるわけよ。そこを蔑ろにするのは国潰すことになるんじゃねーのみたいな。


 そもそも言語によって知識が分断されると、もう経済格差どころではなく民族としての分断になるよね。古代から「あいつらは人の言葉を話さねえ」と言って他民族を排除してきたのがニンゲンですからね。
翻訳って偉大だな。


 とまあそんなわけで、「英語で読めばいいじゃん」と母国内への母国語での知識の伝達を怠り、インテリだけがその知識を独占するのはやべーぜ…みたいなそんなアレで、💩としては冒頭の疑念は割と深刻な危機感と捉えていたりする。


 話がとっ散らかってすまんこ

 「翻訳」というのは、本邦の人文社会系に限っても、その〈知〉の形成過程において、これまで歴史的経緯として相当に重要な役割を担ってきていたはず。

 大学に文学部がまだ健在だった頃、英文学科、仏文学科、独文学科、露文学科……と、各種外国文学を看板に掲げた学科が、多少大きめの体裁整った総合大学っぽいところなら、私大でも並んでいるものだったし、またそれらの学科を介して単なる語学や文学だけでなく、それら海外の「異文化」についての興味関心を抱いてゆく、まあ、ざっくりそういう窓口にもなっていた。

 それらの学科の教員たちの多くは、それぞれ専門的な研究テーマがあるにせよ、半ば副業的に、半ば社会的使命として「翻訳」という仕事を手がけているものだったし、またそれらもひとまず研究者としての「業績」としてカウントされることもあたりまえだった。

 いわゆる人文系の「教養」というのも、そのような海外文学というたてつけを糸口に、あれこれ興味関心を広げてゆく中で、世間一般普通の読書好き、活字読みとして裾野を広げていったその他おおぜいの草莽インテリたちの拡がりによって支えられていたことは、これまでも折りに触れて語ってきたことだけれども、それらの拡がりが「市場」としてだけでなく、ある「批判力」を担保していることで、学術研究的な水準も一定に保たれていることがあったのに、というあたりの問題意識も含めての危機は、今世紀入るあたりからこっちの本邦の状況を鑑みるに、本当にシャレにならないレベルにまで堕ちてしまったのだと思う。

 webだと外国語の文書でも何でも、いまや翻訳エンジンをかませばそれなりに日本語に変換してくれる。なるほど、「便利」という意味では隔世の感、まさにSF的な夢の世界が眼前に実現されているとも言えるのだが、ただ、その変換した結果の訳文がどれだけ妥当なものか、というと、その信頼感というあたりで改めて立ち止まらざるを得なくなるのも確かだ。それは、AI的な人工知能が日常生活にあたりまえに侵入してくるようになりつつある昨今の情報環境ならではの不安ではあるのだが、かつてある時期まで「翻訳」された日本語の書籍なり文章なりをすんなりあたりまえに読み、さして疑いもなく享受できていた頃のような素朴で牧歌的な状況に人文系の「教養」も安穏としていられなくなっている、ということでもある。

 ここで言及されている「意図的に都合の悪いものを堰き止めていることも当然疑わなければならなくなる」というのは、実にそういういまどきの情報環境ならではうっかり可視化されてしまった「翻訳」に対する不安が、生身の存在を介して現実化しているかもしれない可能性と共にある。AI的翻訳エンジンと生身の存在――それも一応は「専門家」のはずの人がたの仕事に対する信頼感が、良く悪くも地続き同じハコになってしまっている、いや、単に信頼「感」というだけでなく、実際に生身の人がたの仕事からして翻訳エンジン的に信頼できない方向に身を寄せてしまっているかもしれない、ということでもあるのだ。

 たまたま、なのか必然として、なのかはともかく、こういう問題が、いわゆるフェミニズムジェンダー論界隈を足場に可視化されてしまったことも含めて、本邦の人文社会系の「教養」、〈知〉のあり方そのものが文明史的な過渡期にさしかかっていることをこのような形であらためて思い知らされる一件ではあった。(と、きれいごとっぽくまとめてておく、とりあえずのところは)

*1:KADOKAWAの出版中止の件、というのはこれ。 www.yomiuri.co.jp toyokeizai.net

創価学会の原風景

 創価学会はカルトと断じる人が多いけど、貧しい人たちが集うゆるい互助組織という印象の方が個人的には強い。


 なんでそう思うかというと、学会員である庶民たちが助け合って暮らす様子を日常的に見ながら育ってきたからだ。


 ワイが育ったのは大阪府門真市の北部。その一帯には田舎から出てきた人たちが文化住宅に密集して住んでて、1970-80年代の人口密度は世界でも有数だったそう。


 あちこちから南無妙法蓮華経のお経が聞こえてきたものだ。特に僕の親友であるSの親はヘビーな信者。休日になると、Sの家からはエンドレスで、「南無妙法蓮華経」が聞こえてきた。


 いかに信者が多いかということを個人的に感じた出来事があるので、紹介してみる。


 2005年に拙著「僕の見た大日本帝国」が売れた。公明新聞にインタビューを依頼され、信濃町へ。1時間余り応じたのかな(紅茶とケーキが出た!)。


 後日、公明新聞にインタビュー記事が掲載。
 するとその日かその翌日、面識のない近所のオバハンが3人それぞれ、新聞を持って家にやってきた。
 「あんたのとこの息子すごいな」って褒めてくれたのだ。


 びっくりしたし、折伏されるんとちゃうかと思って、びびったけど、それもなし。地元の誇りとして喜んでくれただけだった。


 みんながゆるく繋がって助け合う――少なくとも、うちの実家のあたりではそんな感じ。


 ちなみに門真市の第一党は公明党。ずっとそう。

 未だに、共産党公明党のポスターが軒先に貼ってある、是非はともかく「そういう風景」の場所ないしは地域。

 最近、そこに参政党や維新のポスターが、併せて貼られてたりするようにもなってたり。なぜかは知らんが。

king-biscuit.hatenadiary.com
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言葉は通じるのに話は通じない

 会話してもムダ、話が通じない、考え方や感じ方がまるで違って、まさに「言葉は通じるのに話が通じない」局面というのがどうやらそこここで日常化しているらしい、本邦いまどきの世間のありかた、その根の深いところでの背景や理由の一端としての「おキモチ原理主義」駆動な蠱毒化に自閉すること。

 オープンレターズの旗振り界隈が「言論の萎縮」を真顔で懸念している件。彼ら的には本気でそう思っているんだろう。SNSの隆盛になった情報環境からの「圧」をやはりそれなりに感じているということではあるんだろうし、また、それに対抗するためどんどん蠱毒化が進行してゆくんだろう。

 安倍政権はメディア関係者に「監視されている」という感情を与え、不都合な報道が出ないようにしていた。だから支持率もさほど落ちなかった。日本は本当にまずいところに来ていた。


 同時期には国立大学でも学内の教員に心理的圧迫を与えるやり方が広まった。ヒラの教員はSNSの監視くらいで済むが、管理職クラスになると大変。たとえば部局の将来計画を提出するよう言われて教授会で審議して持っていくと、それが本部の意に沿わない場合延々と書き直させられる。従うまでそれが続く。


 投票で学部長に選ばれたが、なかなか学長から任命されないというのも聞いたことがある。そして管理職のそんな悩みはハラスメント相談室も扱えないので彼らは苦痛を抱え、最終的には言うことを聞かざるを得ないところまで追い込まれる。


 これらの陰鬱な事例を見ていて周りの研究者は従順に従うことを学習する。だが、それは研究の生産性を削ぐことにしかなってない。だって職場の心理的安全性を壊すわけだから。こんな人間の扱いがわかっていない改革を続けていて成果が出ると思う方がどうかしてる。

 言いたいことも言えなくなっている、と彼らが本気で感じているらしいのは、傍目からはどれだけ言行不一致、どういう現実認識になっているのか正気を疑うレベルでも、彼らの「お気持ち」的には真実なので、それを自ら立ち止まって「ほんとにそうだろうか」と自省、留保して検証はしないし、できない。

 「お気持ち」に自ら自閉しているようなもので、それを介して日々四六時中、自分自身の生身の認識もほぼ完全に規定されているのだから、そりゃ「対話」も「議論」も「話し合い」も、普通に言われるような意味で成り立つ道理はない。ある種の病い、精神症状だと傍目から見られてしまうのも致し方ない。

 こわいのは、あのオープンレターズとしてやったことも、そのような彼らの「お気持ち」駆動でほぼ自動的に、個々の理性的・論理的な判断とその上に立った合意といった過程を全く踏まずに「そういうもの」として、当然の「正義」として行なわれていたらしいこと。そのことを未だにわかっていないこと。

 「回線切って半年ROMれ」という、かつてのネット掲示板黎明期の名言があったけれども、いまやそれは24時間常時接続がモバイルで可能になり、SNSのようなほぼ「脊髄反射」で気分やノリのまま「情報発信」できるようになったいまどきの情報環境ではなおのこと、拳々服膺しなければならない至言だろう。

 「学術研究」でも「政治」でも「芸能界」でも同じこと、自分の承認欲求とそれを全面的に認められるべきものとしてくれた上で、なおそのまま野放しに通用させてくれる環境を最も抵抗なく泳いでゆけるツールとしての「おキモチ」。

 「当事者」などというのもあれ、要はそういう万能最終兵器としての「おキモチ」をさらにもっともらしく補強するための理屈に過ぎない。