大工の日当の戦後史変遷・メモ


昔話ね
平成元年に70歳越えてた大工さんに聞いたこと


終戦直後大工の日当は500円
お弁当は蒸したさつま芋一本
その頃世田谷村の一坪が500円


オイルショックの頃日当8000円
手間請ってシステムがその頃出来て都会の建売大工が金持ちになった


日当2万円になったのがバブルの頃
そこから40年近く手間は上がってない


ここから劇的に日当が上がるとは思えない

僕がサイディング職人として手間請出来るようになったのが26歳で今から26年前
独立当時これ以上単価下がんないだろうと思ったらリーマンショック、東日本日本大震災までは単価が下がった
当時から常用手間はほとんど変わってない
材工で商売するようになって少し潤うようになりましたが
単価勝負は相変わらず
手間請メインの親方連中は外国人使ってる


この状況では職人さんの手間が上がることないと思うんですよね
この先ビックウェーブがあったとしても
最低限個人事業主として営業してないと乗り遅れてしまうと思う
バブルの時だって渡り歩くタイプの職人さんと社長さんは羽振り良かったけど
僕の師匠なんかは昔気質の棟梁だったんで今とそんなに変わらない手間でしたもの

自分の聞いた話しだと30年〜35年前くらいに千葉県で東急不動産の分譲やってた大工さんは手間請けで1日8万〜9万くらいになってたみたいッスよ!

バブルの恩恵を受けた人って感じですね😳
江戸川あたりの大工手間坪7万前後だったと聞いた記憶があります
ただ当時は墨付けて手で刻んでその値段だったんでそんなに良い金額ではないですね


サイディング職人も僕の親方世代は1日5万くらいになってたみたいで
1日3万にならないなら才能ないから辞めた方が良いってイヤミ言われて育ちました

お疲れ様です
空調ですがバブル期
1人工最高50000円でした。私達職人は馬鹿だから貯蓄する奴はほぼいなく、車はシーマ腕時計はロレックス毎週土日は高級焼肉や寿司屋で夕飯食べてました。
そのお金残ってれば

下職さんは凄かったですね
当時僕17歳で日当6000円で小僧としてボード張ってましたが
同じ歳のボード屋さんが月50万くらい取ってて
すごくスカウトされましたもん


現場朝礼が8時で帰宅は早くて20時〜22時で、まだ息子が2歳位で帰宅しても私の顔覚えて無く、どこのオッサンかと嫁に聞いてました。休みは月に一二回でしたよ
ボーナスは4回出ました。

うちの会社で少し前に引退した70過ぎの大工さんの話ではバブルの時は月100は余裕であったって言ってました。話盛ってたのかな

どこに住んでたかにもよりますね
関東で建売ブームに乗っかってガンガン叩いてた人は
100万くらい余裕で稼いでたと思います


僕がいたのは都内の工務店で手間請け大工さんが常備いるようなところじゃなかったので月50~60万くらいだったと記憶してます


僕は今サイディング屋ですが手間請け職人やってた頃で多い月で月70~80万稼いでました
一番多いときで締めの都合で120くらいでした
今は歳も取ったし単価が下がったのとやることが増えたせいで絶対無理ですね

建築の見積りで、一人一日5万とかでていても、実際にしはらわれるのは、2〜3万ってことですか?元請がピンハネしてる?

それをピンハネと表現してはダメだと思いますが
下流の人間が受け取る金額はその通りです
だから僕たちは上を目指すんです


僕はサイディング屋なので建築のことは分かりませんが見積もりする際の設計労務金額は23000円前後です
それ以上だと相見積もりで勝てません
1人工50000円が常識になる日を夢見てます

都市部の大工で1000万越えとか沢山いたんよなー

その世代の大工は和室が作れて非規格品加工が可能な人達。もう殆どの人達が引退か鬼籍入りしている。現代の大工はハウスメーカーの規格品しか触れないのよ。ちょっとこの床上下を治してとかそういうのが無理。ただ部品を微調整して組むだけ。そこに移民が入るんだよ。日本人が爾後食えるわけ無いやん。

バブルはじけてから消費税が…


消費税を導入した、国政とそのその時の総理大臣…
安倍は2回消費税あげてます…
減税するべき時期に、増税してます…

これが、今の日本をつくりあげた…


高市総理は、早急な改革を敏速にやっておられます…
高市総理が変えたかったのは…
安倍政権…

自分のメインで請負ってるHMさんでは常用単価ようやく18000、税別になりました。
ですので、その現場に手伝いで入ってもらう職人さんには自分もその金額を支払うつもりですが、別の職人さんはお互い大変だからと言って今まで通り15000支払う人もいます。

男性と自己受容・メモ

 風俗で働いて気づいたのは、多くの男性が内面の脆さや満たされなさを抱えていること。そして、自分ひとりで自己受容に至るのが難しい人が多いということだった。


 背景には、幼少期から「ヒーロー像」を求められ、比較や競争、結果、役割の中に放り込まれる環境がある。その中で感情に気づいたり、自分を受け入れることは後回しになり、自己受容のハードルは高くなってしまう。


 だからこそ、男性にとって女性の存在は大きい。とくに、自己受容を深めた女性が「ただ在る」ことで、男性の自己受容も自然に促されていく。


 ただし、それは母親のように献身的に世話をすることではない。ここで言う自己受容とは、感情や弱さを否定せず、そのまま理解しようとする姿勢、そして「自分自身と調和している在り方」を指す。


 男性が自己受容を深めると、誇示や支配の欲望からではなく、自己信頼や調和、創造性を基盤に動き出す。その強さは、本当に力強く、本当に優しい。そうなると彼らは、もはや支配や服従の構造には留まれなくなるのだと感じる。

 この「自己受容」というのは、「前向きにあきらめる」「おりる」ができる、と言うことでもあるように思う。

 ただ、その次にある「母親のように」「献身的な世話」というのが、残念ながらすでにバイアスがかかった見方になっているようにも感じる。既存のステレオタイプな「母性」イメージに引きずられている、という意味において。

 「献身的な世話」というのは、かいがいしく「身の回り」のことをしてやることだけでもなく、少し焦点を拡大すれば、たとえば「父性」のステレオタイプな理解にあるような「家族や共同体へのわが身を省みない献身」といったものも、含まれてこなくもないわけで、そういう意味では男女不問、dedicate という部分においてはある普遍性のあるものかもしれないではないか。あるいは、それこそ「神」なり何なり、何らか超越的な存在に対する「献身」なども含めればなおのこと。



 敢えて自分ごととして言うなら、そのように「世話をされる」「身の回りの面倒を見てもらう」ということを素直に自然に受け入れることができないまま、歳を喰ってきてしまったところがある。

 そのように「世話をする」ことを半ば習い性のように実装してきたおんなさん的には、何とも世話のし甲斐がない、張り合いのないオトコ、ということになるらしい。

 たとえば、つきあったおんなさんにメシを作ってもらう、ねぎらいと感謝の意味を込めてでも「おいしい」と素直に言うことからして難しい。何か自分のためにしてくれる、というその行為に対する「あ、これはいけないことだ」「こういう状況に甘んじてしまうのは自分にとってダメなことだ」と脊髄反射してしまうように刷り込まれてしまったのは、自分が兄弟姉妹のいないいわゆるひとりっ子で、そのことになぜかかなりコンプレックスというか、「ああ、自分は一人前じゃないんだ」的な引け目を早い時期から感じてしまっていたことも、もしかしたら大きいのかもしれない。

 逆に、そのように「世話をする」「面倒をみる」ことには違和感がない。敢えてそうするというわけでもないけれども、なりゆきでそのような関係になり、立場としてまわってくるなら、「しゃあないわな」的な感覚と共にそうすることにまず抵抗はない。

 かつての本邦の「おとな」たち、つまりはかつてのオトコたちということでもあるが、それらの日常の行状を期せずして記していることになる書きもの、たとえば作家その他の嫁さんや子どもといった家族や親しかった人がたが、それらオトコたちの日常を思い出話的につづったものなどを読んでいると、そのかつての本邦の「おとな」であるオトコたちというのは、何ともまぁ、「世話をされる」「身の回りの面倒を見てもらう」ことに対して、あっけらかんと受容できていたのだなぁ、と感嘆してしまう。

 それは「おとな」であること、成人して社会的な存在に否応なしになってしまったオトコである自分である以上、そのように生活の中で半径身の丈の身の回りの些事について「世話をされる」ことは、人により状況により濃淡はあれど、概ねのところ半ば空気のように「そういうもの」化していた、ということではあるらしい。

 同時に、その裏返しとして、その「世話をする」側の存在としてのおんなさんに対して、その「世話をする」内実について敢えてくちばしを入れたりはしない、そこは「異なる世間」として触れないようにする、ということも含まれていたらしいのだが、そのへんの機微や匙加減も含めて、自分などにはもう小さい頃から歴史的な過去としての距離感があったように思う、良くも悪くも。

 それは、おそらくいわゆる「遊び」――のむ・うつ・かう、のその主に「のむ」と「かう」の領分についての立ち居振る舞いについて、さまざまな屈託があらかじめ身の裡に実装されてしまっていて、素直に「そういうもの」として引き受けることのできない不自由というか、無駄に「めんどくさい」ところを抱え込みながらこの歳まで生きてきたらしいことにもつながっているらしい。

note.com

 一方、そのような現状を「喰う」なりわいというのもまた、いくらでも眼前にいるのも同時代〈いま・ここ〉なわけで。

 「独身アラサー女」の設定で稼ぐ3児のママが奢りにきた時に「マーケを学んだら、まずはターゲット設定が大切と学んだ」「子持ちの既婚者は、忙しいし幸せだからSNSに滞在しない」「なので、ひまで孤独感がつよくSNSが生活必需品である独身アラサー女をターゲットにしたら成功した」と言ってて、それでどう稼いでるの、と聞いていったら、「結婚と子どもが居なくても幸せ、といった内容を言い方を変えて唱え続けるだけでバズるので、その導線上に、占いとかスピ系の商品を並べていくだけですね」と話してて、インターネットの罠猟だった。ジビエ料理屋でもひらくのかとおもった。

「左翼」ひとくくりへ至る経緯来歴について

 もう現状がこうなってしまっている以上、当面致し方ないとは思うが、それでもああいう界隈のものの見方考え方を「左翼」とだけ表現するのは、個人的にはやっぱり留保しておきたいところはある。

 それにはあれこれ理由もあるわけだけれども……

 たとえば、少なくとも本邦において戦後の過程にだけ限ってみても、かつてのいわゆる共産党的なイデオロギー(言葉本来の意味での)とそれがもたらす半径身の丈のワヤについては、同じ当時の「左翼」界隈の内側からいくらでも反感や違和感、批判の類は出てきたし、その結果あれこれまたあったわけで……

 それこそこれまたひとくくりにイメージされて片づけられがちな「学生運動」「全学連」(雑オブ雑過ぎるんだがとりあえず)にしても、それら当時の共産党の党的なるもののもたらす弊害や不条理、さまざまな抑圧に対する反発から別の流れになっていったところはあるわけで。

 てか、たとえばいわゆる「学生運動」と言った時、世間一般その他おおぜい最大公約数のイメージの中核にあると思われるのは、あの「全学連」「安田講堂攻防戦」的なるもの、だろう。要するに70年安保に向けての60年代後半のそれら一連の学生運動ということになるのだろうが、それは少なくとも代々木共産党と民青に対する違和感、不信感から輪郭を整えてきていた「学生運動」のゲバ棒とヘルメットの集団の映像によって未だに下支えされている。

 めんどくさいことを言えば、当時それを政治的に支えていたのは当時、自民党長期政権に対する堂々の野党第一党だった社会党 (いまの福島みずほのあの社民党とは、系譜的には連なっているとしても、まず別物だと考えた方がよろし) で、共産党はむしろ「敵対」している側だったりもしたわけだし、さらにその後、概ね70年代いっぱいは挿話として散りばめられることになっていた連合赤軍あさま山荘の銃撃戦だの、よど号事件だのテルアビブ空港乱射だの、安田講堂よりずっと陰惨でシャレならん事態が展開されていた三里塚闘争だの、いずれそういう「その頃」のあれこれ細部の個別具体などは、単なる知識や情報としてももちろん一切すっ飛ばされていて、すべてはとにかく「ゲバ棒とヘルメットの集団」が大学や路上をシュプレヒコールと共に闊歩する、そういう脳内銀幕の映像に収斂されていくようになっていて、そしてそれが現在の「左翼」「共産党」というもの言いにゆるく紐つけられている、と。

 でも、そういうかつての共産党的なるもの、「左翼」的なるものに対する違和感や疑問や批判をそれなりにまっとうに抱いて別れていったあれこれの流れもまた、その先世代交代しながら結果的にいまの眼前の「リベラル」「サヨク」「ポリコレ」界隈の蠱毒エリジウムになっていってしもとるわけで、な。

 いや、ほんまにこれ、なんよ、眼前の問いとして抱えておかにゃならんことは。

 いわゆる「団塊の世代」のジジババにしたところで、かつてはそういう「共産党」「左翼」的なるもの、に対する違和感や反感を当時としてはそれなりにまっとうに抱いてジタバタしていたはず、なのに……な。*1

「左翼」的なるもの、の歴史は当事者含め証言も大量に摂取したが、その対となる「右翼」的なるものの歴史はキチンと追ってないな

 だって、その部分は言語化・対象化・記録化されていないままほったらかされてきたところあったわけで、その意味では情報環境における素材や資料の維持され具合からして圧倒的に「非対称」のまんま、だったから。

 広義の情報環境、それこそ学校や教育界隈なども含めた各種(言葉本来の意味での)メディアの複合が、言語空間そのものの枠組みを良くも悪くも規定してきていた経緯があるわけで。

 で、それが近年の「蠱毒エリジウム」の培養基になっていたこともまた、確かだったわけで。

 戦後最初の15年で、反共に成功し一定の安定した体制を確保できたことで右翼側は安心して、その後の農業と自営業が後退して訪れた「勤め人」社会への対応が不十分だった気がします。


 制度的な長男への力と責任の集中がなくなり、ベビーブームで責任感の薄い次男以下と女性が圧倒的増えていました。


 1965年以降はその団塊の世代が青年期に入り、因習的に家の責任と衰退産業を背負わされた長男と自分以外へに責任のない次男以下と女性では圧倒的な数の差が生じていました。


 後者が「都会的な自由」を旗印にしたリベラルの支持層になり、特に女性は差別解消という別の旗印もありました。


 一方、数の少ない(民主主義では負け)の右翼は本来なら「古来からの伝統を踏まえた日本全体の均衡の取れた発展」(適当ですいません)的な旗印を押し立てて対抗すべきだったとは思います。農協を始めとする業界団体の設立や青年会議所などもその流れとは思いますが。


 でも個人の感想戦では、右翼というよりは資本主義的な個人や自企業の経済利得を最優先していて、結果支持層も「東京で自由に生きる」と余りリベラル変わらないような価値観の人が多くなってしまったような気がします。今の自民党の政治家もその流れかとは思います。


 結果、「東京」で生活スタイルでは負け戦となって

 地方で頑張っている人
   →ヤンキー
 地味な仕事で会社を支えている人
   →キモいおじさん
 真面目に一生懸命生きている若者
   →チー牛

とか本来なら支持層となるべき人たちに蔑称まで賜り、高齢者ネットウヨの乱入もあり四分五裂感はあります。


 安全保障環境の変化と日本の人口減少は戦後や高度成長の終了に匹敵する時代の変化なので、リベラル側が時代変化に対応できておらず混乱している今はチャンスだと思いますが、「東京的なモノ」が強すぎて大変だと想像します。結局ポピュリズムの勝ちで破滅的な社会破壊に進む可能性もありかな

「網羅する/しなければならぬ」の虚妄

 「網羅する/しなければならぬ」という了見が気に入らない。*1

 前々からではある。

 ……いや、ここはできるだけ正確に言おうと努めた方がいいのだろうな。

 そう思ってしまう理由がおのれの裡にあるのでなく、他人事である外側にあること。そう思わされているに過ぎなく、そしてそのそう思わされている理由からして目隠しされているにも拘わらずそのことに気づかず、あるいはは気づけるだけの鋭敏さもなく、他人事の外側にある理由から逆落としにおのれをそのように鋳型にはめてしまっていること。それが気に入らない。

 結果として網羅していた、それならばよし。そうなっていなくても、それもまたよし。いつか網羅している地点に到達するかもしれない、しないかもしれない、それら全部ひっくるめて常に一つの過程であり、その過程の一端でたまたま網羅していたということになるのならそれはそれ、あ、すげえな、おめでとう、で次にまた足をそれぞれの方向に踏み出してゆける。それだけのことだ。

 「網羅する/しなければならぬ」というのがあらかじめ目標になる、なってそれが百点満点の到達点として設定された瞬間から、そこから逆算してあと何点加えてゆけばその満点になれるのか、という打算や計算、同じくそこを到達点としているまわりのあれこれとの競争や駆け引き、最もけったくそ悪い意味での「政治」などまでずるずると引き出されてきて、たちまちのうちにそもそものおのれもまた、水飴に足とられて身動きとれなくなった蟻みたいな無様をさらすことになる。そしてそのことに自ら気づくことも、まずない。

 「研究」とか「分析」とか、いずれそういうもの言いで鋳固められる世間、いや、純粋に属人的な要素を排除したところで言語空間と限定してもいいが、何にせよそこでは「網羅する/しなければならぬ」という了見が天蓋のように覆い被さっていることになっている。

 網羅してもしなくても、獲得できる〈リアル〉に違いはない。

 このことに腹の底から確信が持てるようになるまで、えらく時間がかかっちまったのは、こちとらもまたその程度にその他おおぜいの凡庸凡俗量産型同時代生産物のひとつに過ぎなかったということではあるんだろう。

 むかし、になるのだな、もう。あれは誰の書いたものだったのか、それすらもう忘れかかっているけれども、例によっての柳田國男の仕事についての言及で、折口信夫の作法との比較で引き合いに出されていたこと――たまたま自分の手もとに集まっていた、あるいは自分が目にした資料や材料を介して直観一発でうっかり結論にたどりついてしまう折口と、それをせずに、あるいは仮に同じような直観一発をやっていたとしても、敢えてそこから些末で個別具体な「事例」をあれこれかき集めてその直観一発の結論をして裏づけようとする柳田との違い、といった話を思い出す。そういう折口の仕事ぶりに対して柳田が、結果的に同じようなところに行き着くのだけれども、でも、あの折口君の直観一発にはかなわん、といったボヤきとも感嘆ともつかないようなことを言っていた、ということも含めて。

 「科学」というもの言いに、あやまった慎重さや本末転倒の誠実さみたいなものまでうかうかとまつわらせてしまってきていた、少なくとも人間と文化、文明、社会、そしてあらゆる意味での想像力、といったたてつけで何ごとかを考えようとする世間においては、ということをもっとちゃんと言葉にしないことには、昨今の「人文(社会)系」的なるもの、に対する風当たりの強さに対する有効な足場も作れない。

 



 

JICA炎上と〈おんな・こども〉の領域・雑感

 JICA大炎上になっていることをめぐって、ゆるく雑感。

 JICAならJICAで、中で仕事している人がたの中には、猖獗極めているゆるふわキラキラwoke大正義な「空気」や「ノリ」に違和感抱いてる向きもいるのだろうと思う。

 でも、それは、JICA本来の、そして今も大きな枠組みではそのために存在し、また実際に機能もしているであろう現実的な「国益」を求める組織、として日々仕事をしてゆく上での、いわば「必要なムダorコスト」的に眺めてうまくつきあっている、といった態度や認識もひとつあるのかもしれない、とは思う。

 ある意味、〈おんな・こども〉の領域に対する少し前までの「昭和」「戦後」な「おとな≒オトコの成人≒社会的存在」の「そういうもの」としての態度なり認識なりと、系譜的には同じハコだったりする意味においても。

 それは、何も今回のJICA案件に限ったことでもなく、たとえば、暇空茜氏の住民訴訟その他を介して、こちらがドン引きするほどミもフタもなくむくつけに露わになってしまったあのcolaboに対する都庁およびその上の厚労省界隈の現場のつきあい方、およそまともに「仕事」として、しかも「公共」の組織のそれとして接してきたとは思えないその態度や認識などにも、おそらく同じハコ的に通じるものとして。

 例によって前々から言ってきていることのひとつではあるけれども、本邦のフェミニズムorフェミニストの言動や運動に対して当初そういう「おとな≒世間」の側が留保していた「そういうもの」としての〈おんな・こども〉的領域に対する態度や認識、などにも、それは間違いなく通底していたものでもあるはずで。

 「多文化共生」「文化交流」「男女共同参画」「国際理解」……何でもいいが、いずれそれらの系のスローガンは、そういう意味で全部〈おんな・こども〉の領域として位置づけられていて、だから「そういうもの」として、多少ワヤでもスカスカでも、社会の実利の側に実際に利益をもたらすとは思えなくても、その具体的な成果やそこに至った経緯の検証など厳しくしなくてもいいものとして、「おとな≒世間」からは言わばお目こぼしされてきていたところがあったんだと思う。

 その意味では、「趣味」や「道楽」みたいなものとして、具体的な「仕事」によってもたらされる「実利」――「儲け」「利益」といった世の中を支え、まわしている根幹の、その余剰なり余裕の部分でようやく存在できるものとして認識されているところがあったんだろう。そして、さらに敷衍するならそれは本邦人文社会系、いわゆる「文科系」の理屈や能書き、ガクモンについての「おとな≒世間」の態度や見方の「伝統」、要は「心の習慣」としての「そういうもの」としてあり続けていたものにも規定されているんだろう。

 昨今、いわゆる「公金チューチュー」と揶揄されるようになっている公的な補助金助成金の類をかっぱらうことに特化された今様レントシーカーの群れとその挙動についても、それを差配し分配する「公共」領域の側にそういう「心の習慣」が自明のものとして共有されていて、それが「公金チューチュー」しようと仕掛ける側と共鳴することで、いわば八百長的に企画が考えなしに通ってゆく構造になっているように見える。正気で考えるなら、どうしてこんな杜撰で穴だらけの企画書なり予算要求なりがそのまま通ってしまうんだろう、と訝るような事態がそこここで起こっているのは、何もそのようなお役所相手のペーパーワークだけでなく、いまどき本邦の社会的な組織や団体を動かしてゆく上での「文書」における「効率的」「合理的」な言葉やもの言い、文法や話法といったものが、ざっくりそのような「心の習慣」にあらかじめ同調する/できるようなたてつけになってしまっているかららしい。そしてそれは、同じく前々から拘ってきている大きなお題としての、あの「広告・宣伝」的なカネの流れに超伝導のごときなめらかさで同調してゆく言葉やもの言いの権力化の過程とも、間違いなく重なっている。「ゆるふわキラキラwoke大正義」な、本邦的DEI準拠のポリティカル・コレクトネスの現前のひとつのかたち。*1

 本質的に「ムラはずれのキ●ガイ」衆でしかない「文科系」脳の、しかもそれに頼って世渡りしているような物件群は、そりゃ世の実利、経済や政治や法律その他のたてつけの絡み合いで動いている世の中の〈リアル〉の水準からは、そこに足つけている世間からも含めてそれこそ「疎外」されてきている。で、そんなキ●ガイ衆の能書きやリクツ、あるいは妄想空想お花畑の類を、ちょっとした珍奇なアクセサリーとしてであれ、あるいは本気で良きものとして信心しての上のことであれ、時にありがたがってくれていたのもある程度「そういうもの」だったのだけれども、*2 ただ、ある時期からそれを実利の〈リアル〉のたてつけにあらかじめ組み込んでしまい、実利で下支えされてまわっているこの社会まるごと、それら「ムラはずれのキ●ガイ」衆由来の理屈や能書きを「正しいもの」として、社会的に共有されるべき徳目にまでして儲けようとする動きが出てきたらしい。

 世間一般その他おおぜいの側が、そういうキ●ガイ衆の「文科系」脳の発する理屈や能書きを広く「消費」する/できるような情報環境と言語空間が準備されていったこと。いわゆる大衆社会/消費社会化/情報社会化 (このへん何でもいい) のうっかりもたらしていったある現実。本邦に関してなら、直近地続きな間尺においては高度経済成長を契機に。*3

*1:おそらく関連。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com

*2:すでに1世紀以上も前、日本由来の美術品が西欧に注目されたことについての岩村透の戯作的な評言が、「美術」もまた、西欧社会においてもそのような〈おんな・こども〉の領域として〈それ以外〉の存在であったことに合焦している。「これ以前から日本の美術に注意するものが続々出て来、従って日本美術狂が現われてしきりに日本美術の妙を説き、また同時に美術品の蒐集家が出て来た。其の中には種々の人間があったろう。「サーここで一儲け」という奴もあったろうし、道楽でやった奴もあろうし、己れが物識りを誇る材料に使った者もあろう。慈善的に賞めた宣教師、外交的におだてた政治家、或いはバロン・メンハウゼン風に法螺一方に賞め吹いた連中もあったであろう。また己れが本国の美術界に不平の仇討の材料とした連中もあろうし、また中には実際心から感服して称賛した真面目の技芸家、批評家も大勢あったであろう。」

*3:このへん、一連ご参考。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenablog.com

人の親になって、はじめてわかること

 中高校生の頃、田舎町の幹線道路沿いのチェーンの飲食店に行って家族で食事をするのが嫌いだった。親が厳しくて嫌い、友だちとも話が合わなくて嫌い、先輩も怖い人ばかりで嫌い。「どうせ俺は都会に行くし」って気持ちだけを頼りに勉強は頑張って都会に出た。


 当時は勉強バカだったので、自力だと思い込んでいたし、田舎から子供を都会に出すコストについても何も考えなかった。馬鹿でしょ。都会に出て良かったのは、話の合う人は見つかるし、意味もなく殴ってくる先輩もいない。暴力的に頭の良い人がいて、思考的にボコボコにされはした。でも、それの方が合っている。


 その住みたかった都会で人の親になった。田舎と違って、考えることが多い。金もかかる。田舎じゃないのに田舎みたいに勝手に比べてくるご丁寧な他人もいる。鬱陶しい。子育てってそんなことだったのかよ、勝手にしやがれだ。


 そんな自分も帰巣本能なのか、幹線道路沿いのチェーン店に家族で行くことがある。好きな都会の家賃の味のする気取った店なんかじゃない。でも、ホッとする。「今日、俺が(私が)運転するから飲んで良いよ」なんて言って。本当に平和だ。子供がジュースをこぼしてあたふたするのも良い。気が本当に抜ける。


 立場が変わると、嫌いだったことも好きになる。すると、当時の親の苦労も見えてくる。自分を都会に送り出してくれたことの凄さや、子離れする大変さなども感じる。もしかしたら、これが遅れてきた僕の親離れなのかもしれないし、次の子離れのターンまでの時間を大切にしなきゃと思った。それがチェーン店であっても。

 「おかげ」という考え方があった。少し前までの、本邦同胞においてはあたりまえに。「おかげさまで」といった言い方を普通にしていた、あれだ。

 これまでも何か日本文化論とか日本人論の類で、とりあげられてダシにされてあれこれ語られることも、まあ、ないではなかったもの言いのひとつ。もともとは仏教用語だとか、いや、もっと歴史的な背景が、とか説明や意味づけはそれなりにあるけれども、そんなことはひとまずどうでもいい。

 ここでたまたま洩らされているような、「人の親になってはじめてわかること」といった、それ自体としてはありがちな人生訓というか、ひとつ間違えればどうしようもなく通俗凡庸な「いいハナシ」のヴァリエーションとしてだけ受け取られるような素朴な感懐にしても、背後になにげに横たわっているのはおそらくあの「おかげ」という何ものか、なのだろうな、と感じる。

 何か具体的な存在があって、その「おかげ」で、というわけでは必ずしもない。

 いや、「おかげさまで」に代表されるように、「おかげ」というのは、何によって、とか、誰かに何かしてもらったことで、といったこの現世でのわかりやすい力のベクトルを伴ってのことでも、本当はなくて、もちろん実際には具体的に顔も姿も伴った固有名詞のある個人の働きによって何らか扶けてもらったり何だりということはあるのだけれども、でも、この「おかげさまで」というもの言いが出てくる際には、それらのことだけではなく、その向こう側に漠然と「ある」らしいよくわからないご加護、守ってもらえているような何ものか、それを大きく言い表すことで、自分もそしてその具体的に何か扶けてもらった相手も、それらもひっくるめてのこの世の関係やしがらみ全てにおいて、まるっとうまく包摂してもらえる形象に合焦している、めんどくさく言語化しようとするなら、ひとまずそんな感じ。

 「親」も「子」も、つまり「逃げられない関係」の最もわかりやすい具体例であった「血縁」であっても、それは同時にどこか茫洋とし、漠然としたさらにとりとめない何ものか、に包摂されているという感覚。「逃げられない関係」だから、それは「地縁」と共に、人がこの世に生まれて死ぬまでの間、どんな形であれこの世にある限りは誰であれ関わってこざるを得ない「しがらみ」であってきたことは間違いないし、それは生身のこの「自分」に絶えずさまざまな方向からの不自由や抑圧を与えてくるものなのだけれども、でもだからとって、それらあれこれ、生きてある人としての「しがらみ」もまた、何か大きな書き割りの中でのある摂理として、この「自分」の側からはもちろんのこと、誰であれそれをどうこうしようとしたところでとてもどうなるものでもない自律の駘蕩、天然自然と同じような「そういうもの」としてあるらしい。

 人間世間のありようも、どこか山や海、川や草木や林や森、めぐる季節のうつろい具合の「そういうもの」の権化である自然との間で分節されない、共に大きな書き割りとしてある、という感覚。と言って、神だの何だのといった、人知を超えた「超越」属性のあらわれでもない。なんだろう、つまりはほんとに「そういうもの」としか伝えようのない何ものか。かつての同胞ならそれこそ天壌無窮とでも表現したような、その「おかげ」で、〈いま・ここ〉に「ある」と、いずれあわただしい日々の営みの中でかろうじて安堵できたような。

 ……てな具合の、柄にもない大文字の能書きをうっかり垂れ流しかかったあげく、これはまたいきなり唐突かもしれないが、いま「親と子」という関係をそれなりに〈リアル〉に知ろうとする際、少子高齢化著しいいまどきの本邦世間一般その他おおぜいの感覚の習い性として、どうも「祖父母と孫」の関係と見分けがつかない、あるいはつけられないような重なりあいが起こっているような印象も昨今あったりする。それは「血縁」をイメージしようとする際の雛型が、良くも悪くももう実際の日常の生活感覚に根ざしたところに見いだしにくくなっている分、世代を圧縮したところで「親しさ」「愛おしさ」の手ざわりを探るしかなくなっている、そのあらわれかもしれず……とまあ、このへんは例によってお題箱にまぎれこませて、またあれこれ発酵を待つことにする。

「人材」というもの言い・雑感

 「人材」というもの言い、いつ頃から普通に使い回される語彙になってきたのかよくわからないけれども、人や才能に対して「育てる」「養成する」といった過程の認識がどんどん剥離していって、ただ出来合いの、いつでもそこにある便利な完成品としてだけとらえるようになっていった過程と、どこかで関わっているようには思う。

 そしてここでもまた、あの「消費者の横暴」で、それら「人材」を横並びにただ「選ぶ」だけ、便利に「使う」だけで、使ってるうちにガタがきたり壊れたりしたら「取り替える」だけ、という一連の接し方こそ大正義、最も「効率的」で「合理的」で「賢い」考え方なのだ、的な了見がごくあたりまえの感覚として、同時代的気分の「そういうもの」のうしろに鈍く横たわっている。最も貧しい痩せた意味での、そしてだから「効率的」で「合理的」な意味あいとしての「市場」的現実に対する解釈と運用の系。

 「もの」とのつきあい方、接し方の、敢えての大風呂敷で言えばそれこそ文明史的な脈絡での変遷、という問いにつながってゆくはずのお題でもあるのだろう。人が手を使えるようになり、何らか道具的な意味あいを付与したものを使って周囲と関わるようになってゆくことで、その道具が手の延長、生身の身体感覚の全体性の端末として働くようになり、人にとっての現実が拡張されてゆく――かつて大学の一般教養の講義のひとコマで、あるいは未だ「教養」に値する一般書の市場が健康に稼動していた頃の書店の新書や文庫本の書棚を介して、いつどこで誰にというわけでもなく、いつしかそれなりに教えられてきたような「人間」についての基本的な文明史の一端。

 ことは何も「もの」だけではない。てか、「もの」と同じように人も「関わる」対象、生身の身体感覚を土台にしながら相互的に照らし合いながら共に〈いま・ここ〉にあるのだから、現在の眼前の問いの立て方としては、

  「育てる」「制御する」「維持する」≒「面倒をみる」

という一連の「関わる」過程が剥離していった経緯来歴について、になってくる。

 昨今ではこの人材の「材」が「財」に横転していってもいるらしい。なんぼか値打ちがついたような印象になる分、まだ大事にしている気分にでもなるのか知れないが、どっちにせよ一方的に操作し、扱い、使い回す対象としか見ていないのは同じこと。そりゃ、いったん就職したら定年までよっぽどのことがない限りクビになることはない、という、戦前ならお役人由来の安定雇用がそれなりの民間企業にまで援用されて、戦後は一気にそれが「会社勤め」のあたりまえであるかのように思い込めるようになった「終身雇用」のたてつけなどすでに実質崩壊している現状で、「ニンゲンらしい働き方」だの「やりがいのある労働環境」だのあれこれお花畑なきれいごとばかり聞かされたところでそんなもの、人「材」でも人「財」でもそう言ってくれた方がいっそわかりやすく諦めもつくってもの。帳簿上に数字として記載される水準での〈リアル〉をそのまま生身の現実に投影して、事実そのような手ざわりでしか職場の関係を構築できなくなっているのだとしたら、ある意味こういう語彙も、本邦の仕事の現場における日々の実感に見合って浮かび上がってきたものかもしれず。

 バイトと正社員の間も実質「働く」ことについては変わらなくなった、ということも言われて久しい。

 まあ、これは本邦同胞日本人の均質性というか、労働力のみならず個人の能力がかなり均されて平準化していることが、この場合悪さしているところがあるのかもしれない。たとえば、いわゆる「おばさん」労働力については、パート労働力としての優秀さは以前から指摘されてきているし、若い衆にしたところで概ねそのように認識されてきてはいた。だから、「人材」というのも、必ずしも悪い意味だけでなく、有能で平均的に能力があるからこそ、「材」という平準的なニュアンスで表現できるという前向きな側面もまた、あったのだろうとは思う。

 にしても、ではある。

 少子高齢化に伴う労働力不足(と言われている)の状況で、なりふり構わず考えなしに「外国人」を導入する目先の弥縫策(だろう、どう考えても)を、国策として推進するようになってしまっている近年の状況で、これまでのような「人材」感覚、良くも悪くもフラットで平準的に「それなりの能力」を持った労働力があまり考えなくてもそこらから採用できるという本邦特有の労働市場のこれまでのありようを自明に前提にしたまま、同じように「外国人」を労働力として導き入れてしまうことのワヤは、すでに眼前の大問題としてさまざまに可視化されている。

 労働力は「人材」ではない。少なくとも、これまでわれわれがあたりまえにそう考えていたような、フラットにそれなりに能力があり、日本語の読み書きもそこそこできて、もちろん日本人間尺での気配りや思いやりなども、まあ、許容できる程度には身につけていて、といった「普通の人≒日本人同胞」という認識をそのままうっかり適用して成り立ってきたような「材」ではあり得ない。

 これもまた、これまでの「そういうもの」として空気のようにあたりまえだと思ってきたわれわれの意識や感覚を、眼前の現実とそこに宿る〈リアル〉にあわせて意識的に変えてゆかねばならないという、いまどき本邦世間一般に問われている課題の一環ではあるらしい。