「民間学」の煮崩れていった過程・メモ

 高校の公民だかの教科書に民俗学的な内容が盛り込まれるようになってから、「学校」の中、教室の授業であらかじめそれらを刷り込まれてきて疑わないようなマジメクズ系の若い衆世代が民俗学の世間でデフォになっていった過程があったこと。高校の教室で民俗学的な世界に触れて、そのまま大学入ってうっかりそのまま「入院」までして、というお定まりの、本邦人文社会系のガクモン界隈まるごと劣化煮崩れスパイラル、のひとコマなお粗末。

 それまでの地元/地方ごとの集まり(それはそれで旧態依然のボス&パシリ関係固定だったんだが)を支えてきた坊主神主医者教員らのローカルインテリベースの人材供給源が、折りからの高齢化と学校業務が忙しくなったことなどからアテにでけんようになっていったのと概ね入れ替わるように、だった記憶がある。良くも悪くも「趣味」の間尺でやられていた、良くも悪くもそういうものだった民俗学≒郷土研究由来の雑多なあれこれ含んだ何ものか、の「伝統/伝承」が、それらを共有して支えていた人がた&世代と共に絶賛衰退していった過程。

 傍目にでしか見とらんかったけれどもご近所の、おそらく地方史郷土史系なんかの界隈でも基本同じような過程があったはずで。70年代に盛り上がっとった民衆史なんてのもその過程でそういう最もあかん方向にいろいろ煮崩れてった印象はある。それらの流れの中の人がたの「善意」や「情熱」などとはひとまず別に。ひとまず別に(大事なことなので二回)。

 考古学なんかも雑に言えば同じ過程だったと思うんだが、ただあっちはなにせ高度成長期の「開発」の恩恵がこちとら界隈などとケタ違いかつミもフタもなく具体的だったはずな分、そういう自覚すら持つひつようなどないくらいの業界拡張&維持の忙しさに(゚∀゚)アヒャヒャヒャヒャだったのかもなぁ、と。

 「地元/地方」の人材供給源&食い扶持生活基盤が戦前以来の地元素封家坊主神主医者小中教員から高校教員に、そしてそれがある時期からは博物館学芸員や図書館司書なんかに移行してはいったんだろうが、その過程で失われていったものについてはあまりうまく自省されとらんようで。たとえば、少し前の「ゴッドハンド」事件をめぐるすったもんだにしても、結局その後、半径学会/界の間尺はいざ知らず、世間一般その他おおぜいの目線からわかりやすい「総括」なり「反省」なり、ことの後始末をきれいにやってやろうという形跡は見られなかったわけで、いや、それどころか昨今はたま「縄文」だの「アイヌ」だのとまぁ、いろいろとまた。

 そりゃあ戦後の「豊かさ」が人文社会系のガクモン領域にもたらしたものはそりゃあたりまえにデカくて、それらの受け皿、食い扶持をもたらす場としての大学が増えていったのと共に、遺跡史跡の発掘保護から市町村史類の編纂、都道府県から市町村レベルにまで浸透した各種ハコもの博物館美術館郷土資料館などの林立、その他もう枚挙に暇ない始末だったわけで。

 「民間学」(このもの言いも一時期『思想の科学』界隈からの仕掛けで広まってきたような印象がある) だの何だのといった領分が改めて「発見」されてゆくのも、そういう人文社会系の「豊かさ」ごかしの得手に帆を上げ具合との相関だったところは、悲しいかな、否定できないのだわなぁ。