文字の書けない若い衆・雑感

 文章が「書けない」若い衆問題。語彙力がないとかそういう問題以前にそもそもまず「正解」しか出せない/出してはいけない、という縛りがあって、それはどこか外部に存在しているもので、それをなぞるような「書く」しかしたことがない、というケースが実は少なくないらしいことが何となく見えてきた。

 だから、自分の考えをまとめて文章にすることを求められても、その「自分の考え」というのを形にして表現すること自体がまず禁忌になってるらしく、文字どころか口頭でもそれができない。しゃべるにせよ書くにせよ、何か外に向かって表現する時はあらかじめなぞる雛型がないとフリーズしてしまうらし。

 問いかけても無反応で固まっているから、それを「書く」で求められたら本当に困惑するらしく、試験なんかだと試験時間いっぱいとにかく机に座って頑張っているように見えるんだが、提出されたものを見るとほんとに数行だけ、それも箇条書きのような断片で一文同士のつながりも見えなかったりする代物。

 自分は自筆ノート持ち込み可という形式の試験を割とするんだが、それでも同じ。要は何か「正解」的なお墨付きの雛型なり見本がないと、安心して外に形にして表現することができないんじゃないか、と。そこに昨今は「コミュ力」だの何だのとさらなる抑圧がかかってくるわけで、そりゃ地獄だろうな、と。

 で、そういう症状になるのはマジメな子。一方、普段ロクに出席せず出てきても寝てるような子がさらさら書いてて、へえ、と思ってると、提出したもの見たら一応まとまってて文章にもなってる、でも要は広義のコピー&ペーストの切り貼りだったりするようなことも。これはおにゃのこなどに多いかも。

 そりゃ持ち込み可だから事前にある程度「使える」材料なりフレーズなりをパーツとして集めてノートにしておく、そういう対応はありだし、そういう対処の仕方考えるのはまだ知恵があるっちゃあるんだろうが、そしてそういうのを「賢い」とか評価してたりするんだろうが、でもそれもそれで問題なわけで。

 自分の外側に「正解」が転がっている、だからどんな手を使ってもそれを他人より早く拾いに行く、それが「学校」での「合理的」な身の処し方で「勉強」ってのはそういうこと、的な理解の広まり具合。で、社会に出て生きてゆくのも基本そういう対処の延長線上にあるらしい、という理解。鬱にもなるわな。

 こういう状況で「キャリア教育」だの「実務教育」だのやって、入試も入試でAOだの学校推薦だので「面接重視」で「人柄を見る」とかで、それら全ての機会で「正解」探しをさせられている八方塞がりというのがいまどき高校生くらいのその他おおぜい若い衆のある〈リアル〉なのかも知れん、と割と本気で。

 前々からあった症状ではあるのかも知れんけれども、いつ頃からここまで広まったのかと振り返ってみると、どうもここ3、4年くらい、脱ゆとり教育の号令がかかって以降のこと、という印象はある。半径身の丈ご当地弊社級環境前提ではあるが。