孤独死ジオラマ・メモ

②制作者は部屋がきれいで「自分はこうはならない」という人でも、突然の別れなどをきっかけに少しずつごみを溜め込んでしまう。決して人ごとではないと話します。


③中には、ごみの量が最大で8トンの部屋も。模型では分かりやすくするためにごみの量を減らしています。「孤独死のあった部屋」は、22日まで開催中の「エンディング産業展」で展示中です。ifcx.jp

 モノが身の回りに大量に、「用」から乖離したところで増え続けてゆくような日常は、戦後のそれも高度経済成長の「豊かさ」が一部の地域、都市部のある部分に限らず、ほぼ日本中、全国区の生活にまんべんなく行き渡るようになっていった過程で現前化してきたはずで、それは「雑貨」というもの言いにそれまでと異なる内実が付与されてゆき、「雑貨店」がオンナの人がたの夢見る「商売」のひとつの定型として合焦されるようになったりもしたわけで。

 「用」から乖離したモノ、というのは「別になくても具体的に困らない」ようなものでもあるけれども、ただその「具体的に困らない」の水準がある時期までと変わってきていたのも確かだろう。「衣食住」に集約されるような、個体をイキモノとして維持してゆく上で不可欠の営みに結びつけられる、だからこそ「なかったら即座に具体的に困る」ようなモノ、という意味あいから離れて、でも個人のココロや気分としては「困る」というような。

 「断捨離」というのもすでに商品となって、それこそ海の向こうで持ち回って商売にするコンマリみたいな向きも出てきているわけだが、「整理」だの「片づけ」だの「収納」だのといったカタチでちらほら現れてきていた、そのようなモノの大量化と日常化に対する対処の仕方は、ひとしなみに「モノ」としてだけくくって片づけられないような日常の側の変化をひとつの関数にしていたはずなのだが。

 「ゴミ屋敷」問題も、おそらくそのような脈絡において、また。