「情報」化、以外の「便利」・メモ

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 そりゃネットの遮断やサイトの閉鎖なんかは、焚書坑儒するより手間も時間もカネもかからんし、何より物理的な抵抗や良心の痛みなんかも圧倒的に少ないわなあ。「情報」は「処理」しやすいのよね、きっと。「速度」に同期して「合理性」「生産性」任せに日常流していると、それだけ「処理」もされやすくなるかも知れんで、な。

 だから、一部でもいい、ほんとの限られた部分でもいいから、「情報」化されない自分を必ず留保しとくようにする、できるかできないかいまどき難しいかも知れんが、でもとにかくそういう意識だけは持つようにする、その心がけが何かの時に必ず役に立つとおも。「処理」するのにこいつは手間や時間がかかりそう、何より半径生身レベルで具体的にめんどくさそう、何でもいいけどそういう留保の仕方/され方でいいとおも。それはどこかで孤立したり疎遠にされたりすることとバーターかも知れんけれども、でもだからこそやってみる価値がある。「おりる」の一歩で。

 「情報」化以外に「便利」はあり得ないのだろうか。おそらく、誰にとってもまんべんない「便利」ならばそれしかないんだろう、な。でも、自分にだけ「便利」であるような環境なり条件ならば、「情報」化とはまた別の、あるいは同じ「情報」化でも違う意味あいのそれを実際に考えられるような気はするんだが、な。

 フォトショですらこちとら時間がかかるんでムダ感あってあかんのに、動画の編集なんざもう隔靴掻痒どころじゃないんで「この時間で他にあれこれできて……」とか考えるとどうにも勿体ない気がして踏み切れんままだった。おそらくずっとこのまんま。でもそれでいいというか仕方ないと諦めとる自分的に。なんかゲームにハマりきれんまんまできとるのも似たようなムダ感があったなあ、と。時間を「こんなこと」(すまぬ、ほんとにそう感じるのだ)に使うのは申し訳ないという感覚が拭いきれんのはこれ、なんなんだろう、とはおも。でも何か生理的なレベルのような気もする。

*1:デジタイズされた「情報」はいつ削除されたり改変されたりしていても、実はもうほとんど気がつかない、ないしはそんなことどうでもいいレベルで無意識無自覚な領域に放り込まれて「関係ないもの」になっているらしい件、とも関わってくるお題。例によってgdgdと連なってゆくはず。