電子マネー、の信用ならなさ

 電子マネーで給料もろて、それが使える範囲で使うて、でもそれが一般市場より割高設定で、結果もらうも払うも全部同じところに吸い上げられて、ってそれ、タコ部屋女郎屋炭鉱兵舎工場その他でずっとやられてきとったシノギの手口。「市場」の電子化(≒「情報」化)が、社会と家庭(≒日常)生活、マクロとミクロ、公と私その他、歴史/文化的経緯や背景と共にいずれさまざまにあり得てきたはずのそれら「境界」介しての棲み分けやそういう社会的生態系自体、一気にミもフタもなくフラットに「開かれた」wものにしてきた結果の現在。

 仮想通貨というのもあれ、そもそもの仕組みからしてようわからんまんまなのだが、岡目八目で見聞きしてみとる限りでは、「仮想」の数字上でなんぼ儲けたところで(億り人、なんてもの言いも出回ってたようだが)「現実」化してゆくところにしっかり関所が設けられている様子。どうもそれを実際のカネに、つまり今われわれが依拠している現実の通貨による経済の水準に適用させてゆく過程にあれこれネックがあるものらしい。「現金」化しなくても買物できれば、と言っても仮想通貨で買物できる店なり場所なりがまだほとんどないに等しいという現状。何よりそもそもその値の上下の振れ幅、市場の不安定さがとんでもないものらしいということくらいはシロウトでもわかるから、これまでの株式相場や先物などいわゆる「金融/証券」系のバクチ性の理解の上にさらにしんにゅうのかかったうさんくささ、信用ならなさを世間一般その他おおぜいが抱いているのもまあ、ある意味当然という気はする。

 電子マネーというのはある程度広まってはきた。とは言え、多くはスマホ介しての各種電子マネー決済の利用か、あるいはSuica以下、各種公共交通系ICカード乗車券(こういう呼び方が正式らしい)介して利便性を享受しているというのが現状かと。まして、それら電子マネーと話題の仮想通貨との違いなどおそらくあまり認識されていないだろう。もちろん、こちとらとてあやしいままだし、またあやしいままでも日々の暮らしにゃまず支障などない。「そんなの関係ねえ」のまま、なのだ。

 貨幣自体がそもそもヴァーチャル(≒仮想現実)である、ということは経済学の人がたでも口にする。なるほどそうだ。けれども、そのヴァーチャルが「現実」を覆ってゆくことで〈リアル〉が変貌していった歴史というのもすでにある。貨幣経済が浸透していった過程での違和感や反発、葛藤などについては、それこそ世界中で観察できたことだろうし、こと本邦のこれまでに限ってみても、いわゆるムラ社会的な成り立ちで存在してきたコミュニティにそれら貨幣が新たな飛び道具として日々の暮らしの中に入り込んでいった過程というのは、ちょっとその気になってみればこれまでの「歴史」関連の仕事の中にいくらでも認めることができる。「商人」に対する本質的な違和感、信用ならなさ、というのもそのようなヴァーチャルな〈リアル〉を平然と手もとで操る身振りやもの言いなどを介して根深く醸成されてきたものなのだろう。そして、そういう「信用ならなさ」というのは、昨今の電子マネーや仮想通貨といった「新しいヴァーチャル」の貨幣(と、とりあえず便宜的に呼んでおく)を操る人がたの身振りやもの言いなどにも、間違いなく宿っている。


 
 
 

電博が人生のゴールという人たち・メモ

 こういう人たちはいつ頃からそうまで当たり前に大学に棲息するようになっていたのだろう、と。「いい会社」に就職したい、安定した大企業で働きたい、といった意味だけでなく、そしてそれらがかつての重厚長大系企業でなく、銀行金融証券系でもなく、「電通博報堂」であるようなまさに「電博」とくくられるような三次産業の王者として君臨するようになったあたりを初手から標的にしているような、そういう目的意識にとぎすまされた若い人たち、という意味で。

 例によっての自分ごとから振り返ってみるしかないのだけれども、芝居に首突っ込んでいた仲間のひとりに、何が何でも広告代理店に行きたいと血道をあげているのがいた。まわりにそう公言していたわけでもなく、何よりある時期までは役者としてそれなりの活動をしていたような人間だった。水戸の出身で確か二浪くらいしていたかも知れない、見てくれは間違いなくいいオトコで、ガタイも筋肉質でスマートで、今なら「イケメン」と呼ばれて当然のカッコよさ。と言って当時のこと、まだうわついたチャラい身ぶりは身につくわけもなく、また根が水戸っぽの柔道取りだったとかの、まあ「硬派」系だった。それがどうして大隈裏の芝居小屋なんかにまぎれこんできたのかよくわからなかったが、自分などとも案外に気はあって、一緒の舞台もつとめたことがあるし、役者としての彼を演出したこともあった。

 当時の学生芝居の界隈のこと、就職ということを真剣に考えているような連中はまずいない場だったから、その彼が博報堂に何が何でも入りたいと七転八倒していることを知ったのは、彼が胃潰瘍か何かで病院に入院して手術をし、そのあたりから芝居の現場から離れるようになった、その後のことだった。二浪していたことを考えたら就職を本気で考えるのはあたりまえなのだが、当時の自分たちのまわりの空気はそんなことすら考えの外で、そうか、こいつはそういうマジメなカタギになるようなやつだったんだな、という程度の理解でしかなかったように思う。

 確か面接でいいところまでいったか何かで、彼としても期待していたらしかったが、不運にもその最終選考のあたりで選に漏れたとのことでいたく落ち込んで悩んでいた。ただ、そこからどこをどう運動したのか、面接担当に何か想定外の働きかけをなりふり構わず行い、それが奏功して結局、博報堂に採用されることになったと聞いた。聞いた、というのは彼自身がその武勇伝を、特に大袈裟にでもなく素朴に淡々と、ああいうのが水戸っぽらしいというのか、そういう素朴さ純朴さでうれしそうに語ってみせる場に居合わせたことがあったので知ったので、その時も、ああそうか、よかったなあ、という以上の感慨は抱かなかった。それは別にこちとらが世間知らずだったというだけでもなく、たとえ電博であってもその程度、普通の企業と同じような視線でしか見られていなかったということで、おそらく当時1980年の東京の大学生の最大公約数な「就職」「会社」意識としても、そうズレたものではなかったのではないだろうか。

 彼は後に、相も変わらず芝居にしがらんでいて手打ちの公演を続けていたかつての仲間のこちとらなどにも、割と律儀に舞台を観に来てくれて、それなりの感想やダメ出しなども如才なくやってくれて、芝居の現場にいた者としての「違い」をなにげなく示してくれてもいた。その頃から世間に露わに見え始めていたギョーカイ風を特に吹かせるわけでもなく、派手な言動をするわけでもなく、ただそれでも何年かするうちにはそれなりの臭みを口調や身のこなしにまつわらせるようにはなっていたけれども、そのうちにそういうつきあいの視界からフェイドアウトしていった。二浪していたからもう60歳越えで子会社にでも転出していて悠々自適、消息が絶える前には雑誌の仕事をしていると聞いていたが、その後世紀末から今世紀にかけての疾風怒濤の時代、果してどんな仕事を博報堂でしていったのか知らないし、おそらくもう邂逅する機会もないままだろうが、冒頭言われていたような「電通博報堂に入るのが人生のゴールみたいな人たち」で充満するようになっていったその後の時代とどうつきあっていったのか、ちょっと興味がないわけでもない。

 まあ、そんなことはどうでもいい。80年代が深まってゆくに連れてそこら中で猖獗をきわめるようになっていったはずの、そのような「電通博報堂に入るのが人生のゴールみたいな人たち」にとっての、その「知識や芸術や文化」というのは、それ以前の大学生にとっての「知識や芸術や文化」とどう違っていたのか、ひとまずそこがこの場でのお題になる。「就活のときに切り捨てられる「小数」でしかない」といみじくもこのツイ主の表現する、そういうもの、の内実。そしてもちろん、そうなっていった過程の変数としての、「就活」自体の意味あいの変遷なども共に。

 「アイテム」といったもの言いが自分には同時に思い浮かぶ。あるいは「カタログ」や「スペック」なども、また。「知識や芸術や文化」が一律にそれら「アイテム」や「スペック」としてしかつきあってもらえなくなっていった過程。かけがえのない人格陶冶のための教養としてのそれらではなく、人格だの生身の主体性などと「ひとまず別なところ」に想定されるようになった「カタログ」の字ヅラに並ぶ「アイテム」「スペック」としての記号群。TPOに応じて服を選び、身ぶりも整えるように、そのための素材としての「知識や芸術や文化」でしかなくなってゆくことで、いつでも着替えられるものになり、それは「就活」という局面においてはすでにそう役にも立たないものになっていた、ということだったのか。

「通史」的大風呂敷へと向かう性癖・メモ

*1
 「通史」を書こうとかまとめようとか思ってしまう、そのこと自体がある特殊な性癖、いわゆる通常型の〈知〉とは異なる領域に足踏み込まないことには獲得できないようなものなんでないか、と思っている。「通史」に向かって発情するのは「おはなし」に向かって発情するのとある意味同じことなのだとも思う。あるいは「一般理論」や「構造」的な方向へ向かってしまう性癖などとも、また。

 たとえば、同じハコとしてレヴィ=ストロースパーソンズなんかが思い浮かぶ。もちろん脈絡や背景その他全部すっ飛ばしたところの極私的で漠然とした印象論としてでしかないけれども、いわゆる抽象化の果て、個別具体の水準からどこまで遠く「普遍」へと向かえるか、そこに近づけるか、といったある種宗教的信仰的な「熱意」に支えられた営みとして。

 西欧的な脈絡での「科学」という信心への成り立ちとかに関わってくるのだろうが、ならばそれを本邦ポンニチ的歴史文化民俗的背景でどのように理解し受容し語り直しながら上演していったのか、というあたりの経緯来歴についても、同じ日本語環境の懐である程度自前で「わかる」にしようとしておかんことには、どんなに誠実にマジメに精緻に歴史だの文化だのの能書き振り回そうとしたところで、あまり実になる作業にならないように思う。

 たとえば、明治以降のそういう「通史」志向性といえばまず出てくる名前の徳富蘇峰にしたところであれ、いわゆる近代的な〈知〉のありようからしたら端境期というか、近代以前のあれこれを未だふんだんに内包包摂しとった物件、としか言いようがないはずだし。別方向ではあれど、佐藤紅緑なんかも近い印象がある。とにかく大風呂敷。そしてその大風呂敷を成り立たせていることばの網の目自体がそもそも何か根本的に違っているような。それは畢竟「世代」性の規定するところはあるんだろうとは思うけれども。*2

 柳田國男ってのはだから、そういう文脈から考えても規格外というか、そういう「世代」性の例外事例みたいなほんまにけったいな存在だったかも知れない、と改めて。蘇峰や紅緑的な大風呂敷全開の「通史」志向性をあらわにしても全く不思議のないような「世代」性に生まれていたにも関わらず、どこまでもそれを抑制してゆくような「わかる」への歩き方を選択していったとしか見えない。鴎外的な、西欧近代をある角度ある方向から見てしまったそういう理解の上に立った抑制の気配。そういう意味ではめんどくさく、いまどきのもの言いで言えば陰キャな〈知〉ではある。開放的で脳天気な陽キャヒャッハー系の〈知〉とは理屈以前にまず生身としての反りが合わないだろうし、と言ってそのような西欧近代自体に対峙しようともしないしそもそもそんなこと考えもしない恒常的な常民のモードを根本的に持ってしまっているような〈知〉に対しても疎外感を抱いてしまっただろう。熊楠や尚古会系「趣味」人界隈への距離の取り方は後者の例なんだろうと思う。ただまあ、晩年に至ってそのへん抑えが効かんようになったというか、戦後の最晩年のあの「海上の道」に至る、まるで湯の中でとろろ昆布がほどけてゆくような、はたまたフリーズドライの具材がみるみる形になってゆくような大風呂敷開陳の道行きは、人生先行き見えてきたことも含めたあれこれ事情に背中押された「通史」的「わかる」への鬱勃たるパトス抑えがたく、てな感じでそれはそれである意味微笑ましくもあり。

  「量」が「質」を凌駕してゆく過程と、その転換点みたいな話ではあるような、そのへんは。で、おそらくそれが母胎となるべき社会なり地域なりのスケール(いろんな意味での)の問題も関わってくるような気はする。*3

*1:「通史」に限らずそういう抽象や普遍への志向性が稀薄な自分を自覚しているからこそ、こういうことも考えんとあかんのだろう、と。昨今いろいろ取り沙汰される通俗「通史」本がらみのあれこれも含めて。

*2:近代以前近世的な情報環境におけるある種の漢文脈の〈知〉との関係は当然想定しなきゃいけないんだが、ただそれもどういう脈絡でそれに接してきたかというあたりの腑分けが大事なのかも知れない、個々の知的形成過程において。

*3:直近関連その他、本ノート以外も含めてだと、このへんになるかと。 king-biscuit.hatenablog.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com

「読む」をめぐる因果

*1

 「読む」をめぐるこのような作法の継承、伝承のあり方もまた、もはやこれから先、このように牧歌的な挿話と共に語り継がれて教訓化してゆくこと自体、もう難しくなってきているのかも知れないと思う。たとえば、「講読」あるいはさらに「精読」といった一連の言い方にはらまれていたある種の職人的な偏執、どんどん一点に収斂してゆくような意識の絞られ方といった部分も含めて、そのような「読む」がもたらす効果や結果についての信心や信頼からそもそも揺らぎ始めているのが、本邦日本語環境での人文系の現場だったりするらしく。

 ノートをとりながら「読む」、そのような読書ノートを元の本一冊について何冊も作ってゆくような読み方は、戦前の旧制高校生の記録などにすでに出てくるものだが、それらが戦後の教育環境でどのように継承され、あるいは形骸化していったのか、といった「歴史」についても、精神史的な意味から掘り起こして脈絡だけでも記述しておく必要があるのだろうと思う。

*1:親の心子知らず、あるいは、孝行のしたい時に親はなし、などとある意味同工異曲の「あるある」挿話ではあるだろうものの。

「蓄音器」という名称・メモ

*1

*1:モノと名前、名づけ方/られ方の関係についての備忘録として。

TSUTAYAと吉野家・メモ


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 TSUTAYA化、とひとまず呼んでみる。あの餃子の王将「でさえも」もはや抗えなくなっている何ものか、として。*1

 ショッピングモールなどからカフェその他の商業施設、主として接客対応を必須とするような端末だけれども、そこに現出される空間のありようを介して拡散浸透していった最大公約数的に望ましい、満足すべき、「癒される」感覚や美的価値観とそれを先廻りしながら受け止めてくれる空間の文法。それは今や単にそのような公共の空間のみならず、おそらくはホテルやマンションなどの半径「個」の身の丈の日常の住空間、いわゆる私的生活の宿る空間にまで通じる広汎な過程。もちろん「ロードサイド文化」だの「郊外化」だのといった術語である時期からこっち、本邦でもあれこれ取り沙汰されてきていた事象の一環ではあるのだけれども、どうやらそれはもはやそのような風景として以上に、何かより大きな動きが浸潤してゆく過程の現われとしても、ある種の「植民地化」にもなにか等しく。*2

 「王将」などは昨今のファストフードのうちでもとりわけ「土着性」の色濃い「ニッポン的」なそれ、のはずで、それ故にそれらはこういうTSUTAYA化とは最も縁遠いもののはず、でもあったのが昨今、もうものの見事に裏切られてゆく現在。

 かつてならばこういう場合にまず浮かぶのは「吉野家」で、そこで売られているのは「牛丼」で、それらのコンボで喚起されるイメージは善し悪し好悪別にして、確かに何かのイメージ、身体的で官能的ですらあるように何ものかを確実に宿したものを否応なく立ち上がらせてくるものではあったはず。でもそれはこのところだとまるで別になり、たとえばあれだけ炎上した「牛丼福祉論」においてもそこにはすでに吉野家ではなくすき屋が想定されていたように、「牛丼」からもそれを外食として売りさばく「吉野家」のような店や業態からも、かつてはまだあったような「土着性」も「ニッポン的」も何もかもフラットに平等に均質になめされ見失われてただの現在を構成する意匠にすぎなくなり、だからこちらもわざわざそうと意識するほどのこともなくなり、そういう意味ではなるほど、「夜明けまぎわの吉野家では」という冒頭のワンフレーズ一発で同時代のインテリ知識人文化人界隈のしちめんどくさいこじれた自意識を出会い頭に蹴り上げることになったあの「狼になりたい」(1979年)などもうとっくにただの音源、ダウンロード一発250円也の「コンテンツ」に過ぎなくなっているのも必定ということで。

【古市】なるほど、すき家はいいですよね。牛丼やファストフードのチェーンは、じつは日本型の福祉の1つだと思います。北欧は高い税金を払って学費無料や低料金の医療を実現しています。ただ、労働規制が強く最低賃金が高いから、中華のランチを2人で食べて1万円くらいかかっちゃう。一方、日本は北欧型の福祉社会ではないけれど、すごく安いランチや洋服があって、あまりお金をかけずに暮らしていけます。つまり日本では企業がサービスという形で福祉を実現しているともいえる。http://president.jp/articles/-/11364?page=4*3

 思えば「吉野家」はある時期まで、確かに何ものかの象徴ではあり得ていた。ことさらにそうと意識することはなくても、「吉野家」の「牛丼」というのは、それ以前だとたとえば「ラーメン」であったり、その後は「ほか弁」だったりしたような、そういう決してきらびやかでオシャレで光のあたる「顕教」としての同時代のもの言いの脈絡には決してそのままぬけぬけと現われることのない、現われるとしたら必ず何かめんどくさくこじれた意識の昏がりをうしろに従えながらでしか眼前化しない、そんな形象の系譜の末尾の現在にしっかりと立ちはだかっていた。だからこそ、あの「吉野家コピペ」のような比類無き破壊力を伴うイメージ喚起力をうっかり利した「詩(うた)」もまた名無しの正義の挿話の裡に未だ記憶されていたりもするわけで。

昨日、近所の吉野家行ったんです。吉野家
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱいで座れないんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕下がってて、150円引き、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、150円引き如きで普段来てない吉野家に来てんじゃねーよ、ボケが。
150円だよ、150円。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で吉野家か。おめでてーな。
よーしパパ特盛頼んじゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、150円やるからその席空けろと。
吉野家ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
Uの字テーブルの向かいに座った奴といつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ。
で、やっと座れたかと思ったら、隣の奴が、大盛つゆだくで、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、つゆだくなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、つゆだくで、だ。
お前は本当につゆだくを食いたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい
お前、つゆだくって言いたいだけちゃうんかと。
吉野家通の俺から言わせてもらえば今、吉野家通の間での最新流行はやっぱり、
ねぎだく、これだね。
大盛りねぎだくギョク。これが通の頼み方。
ねぎだくってのはねぎが多めに入ってる。そん代わり肉が少なめ。これ。
で、それに大盛りギョク(玉子)。これ最強。
しかしこれを頼むと次から店員にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らド素人は、牛鮭定食でも食ってなさいってこった
*4

 吉野家TSUTAYA化することは、おそらくない。TSUTAYA化に抵抗するから?  違う。もはやそうする必要もなくなっているから。してもしなくても変わらなくなっているからだ。もはや吉野家すき家とすんなり互換できるものであり、それは同じ牛丼を商う外食チェーンとしても互換できるし、そしてその先、王将ともいきなり!ステーキともいくらでも入れ替えることのできる「コンテンツ」になっている。王将がTSUTAYA化したように、何かのはずみで吉野家TSUTAYA化しようと思えばいくらでもできるだろう。だがそれは今のロードサイド的「食」の「コンテンツ」消費のモードにおいての普遍的なパッケージの文法にすぎないのであり、吉野家だから、王将だから、という個々のブランドや業態、ビジネス展開の「違い」に根ざした何らかの「戦略」として選択されるようなものではなくなっている。

 郊外の片側三車線のバイパス沿いに展開するようになったら、吉野家すき屋も王将も、ガストも丸亀製麺も宮本ななしもみんな同じこと、TSUTAYA化する/されることはいつでもできるようになっている。盛り場の駅前、夜半近くの脂まみれの空気の中、細長いビルの1階の隅に透過光オレンジの看板を光らせているあの吉野家はもう、同時代の意識の重心のかかる実存としての姿を静かに消しつつある。「化粧のはげかけたシティガール」も「ベイビーフェイスの狼たち」もそこにはいなくなり、どれも同じような形の軽自動車を転がすようになった彼らの末裔も、他愛なく屈託なくTSUTAYAの駐車場に群れ集まってきては、スタバのなんちゃらフラペチーノだのを器用に注文している。

 先の弘前の話、前世紀末、大きなユニクロが出来てて向かいにビブレ(イオンみたいなもの)が合って、いま何かと話題になるイオンとそのあれやこれや、を体現していていて、逆説的に時代を先取りしてたってことになるなあ。でも、古着もCDも本も、いやぁ当時の平均的大学生が好きだったモノは仙台が、さらに圧倒的に東京が充実してて、そこが「文化資本格差」としてあったのかもしれない。


 言うても弘前には丸善があり、それなりに文化的な街で、人口per headでのフレンチやイタリアン、衣服にかける金額など日本一だし、実際、地産地消イタリアンの走り、オステリア・ディ・サッスィーノを始め名店が多いのだが、だがしかし、資本力がかき集める宝石から味噌糞まで、と選別されたマスターピースと、ある時点までは平衡を取れるのだが、何処かで前者が圧倒的物量で攻め立て「ゴミの中にお宝がある」などいい、マスターピースを正当に扱えなくなってるからこそTSUTAYAなりビレバンなりが「ノ」して来とるんやないかなと。

*5

*1:オサレ化してるのはTSUTAYAでなく「蔦屋書店」ブランドなのだというツッコミも入るだろうが、やはりここは「TSUTAYA」の字ヅラでないとけったくそ悪さの喚起度合いが違ってくる。

*2:「個」と「個室」の関係についての歴史民俗的文脈からの考察というのはずいぶん昔、拙いながらも喰いつこうとしていたお題ではあり。http://d.hatena.ne.jp/king-biscuit/19900313/p1d.hatena.ne.jp

*3:「牛丼福祉論」の震源地はこちら。president.jp もちろんさっそくまとめられたりしとったわけで。togetter.com

*4:派生的に幾多の本歌取りめいたヴァージョンが簇生していったことも含めて、すでに「おはなし」である。 http://www.geocities.co.jp/Playtown-King/2754/2ch/buki-7.htmwww.geocities.co.jp

*5:「ロードサイド」の風景を歴史や文化、社会の脈絡で意味づけようとする仕事は、やはり30年以上前の北米、アメリカの古本屋の店頭や図書館の隅で出喰わしたものだった。そういう〈いま・ここ〉とのつきあい方、〈知〉の手もとで抑え込んでゆくやり口があるんだ、という眼の開かれ方はしかし、その後の本邦日本語環境でのそれら「郊外」論「ロードサイド」文化論などの流れからはついぞ感じることのできないまま、今に至っている。

The American Diner

The American Diner

The Complete Route 66 Lost & Found

The Complete Route 66 Lost & Found

ことばに合焦してしまう意識の習い性・メモ

 クラシックやジャズが「高級」で「知的」な音楽で、かつての「教養」の一角すら形成していた理由について。あれ、要は「歌詞」がなかったから、という事情もあったと思っている。

 ことばと意味とにまつわらされているある種のめんどくささみたいなものは、同時に通俗への入口にもなっていた。特に、耳から入る音としての音楽にそれらことばが介在していると同じ音でもまずそこに耳が合焦してしまう性癖が、文字/活字を「読む」ことで自意識形成してきたような人がたにとっては拭い難くあるものらしく、文字を「読む」ようにことばにも直線的に否応なく意識の焦点を合わせてしまう。歌詞のない音楽はそのような意識の合焦の習い性をスキップしてくれるし、その分またことば以外の音楽の成分を音として、フラットに平等に「聴く」ことを可能にしてくれる。ことばと意味の呪縛に自ら身を投じたことでそのような「自分」になっていったことをもう一度、自ら否定してゆくことで感じられた解放感のようなものが、クラシックやジャズといった音楽に彼らことばと意味に呪縛された「自分」という意識たち――つまりインテリ、知識人の類にとっては新鮮で、何か興奮を喚起しやすかったのだろう。*1

 おそらくこれは音に対する耳と聴覚についてだけでなく、眼と視覚を介した視線でもそういうところがありそうなのは経験的にもある程度わかるところがあって、街なかだとよくわからないけれども、たとえば野外の風景の中に文字で書かれた看板などが出現すればそうと自覚して認識するより先に意識がそちらにパッと合焦してしまうし、外国に行ったりすればさらにはっきりと、まわりの風景の中に埋め込まれ紛れ込んでいた自分の理解できる文字にだけ意識が集中してしまうのがわかる。理屈や理論の類は知らないが、実感的にそういうことばと意味の呪縛というのは思い知らされることが少なくない。そしてこれは、音楽に「歌詞≒日本語」が介在してない分、自由自在にこちらの「想い」(≒思い込みor勘違いor妄想その他)を勝手にぶち込むことができるという、後のおたく(的心性)が森高千里に熱狂しメイドやフィギュア、レイヤーらの「内面など(゚⊿゚)イラネ」な対象に自分のココロのちんちんをうっかり丸出し垂れ流しに、という古くて新しいココロのからくりとも相通じる、何かの闇に収斂してもゆくものだと思う。そういう意味では、かつての丸山真男のクラシック崇拝、なんていうのもあれ、いま読んでみるとご本尊は自分で読み返して死にたくなったりせんかったんかな、と。*2

 いまどき若い衆らがカラオケでアニソンとか歌う時に、おっさんおばはんらが歌謡曲や演歌歌う時みたいに眼を閉じて、自分の内面にだけ対峙してゆくような陶酔の仕方して歌うことって、最近はもうあまり見たことないような気がする。いつもイヤホンを耳に突っ込みっぱだったり、マスクするのが常態化してたり、あるいは前髪その他で顔を隠したがったりパーカー類のフードを好んだり、いずれそういうわかりやすい明示的な「自意識ガード」モードのいまどき若い衆よりも、むしろそうでない若い衆の方がそのような自意識表現のこじれ具合が深刻化しているかも知れない、という印象もある。これはもちろん、戦後で昭和なおっさんおばはんたちはなぜ、カラオケで歌う時に眼をつぶって歌いがちなのか、という懸案の問題とも裏表になって、近代の浪漫主義的自意識とイメージの脳内立ち上がり方の関係、そしてその来歴について、といったお題につながってゆく。あるいはまた、昨今また改めて前景化してきたところもあるいわゆる「ポエム」にうっかり引き寄せられてしまうココロのありよう、などの問題もからんできそうではある。さらに拡げるならば、これも以前から言及している、どうして浪花節は(おそらくある時期以降)眼をつぶって聴くものになっていた(らしい)のか、などもまた。

 このへんはそれこそラノベの読み/読まれ方、の問題とも関わってきそうな話で、そういう映像や場面その他いわゆるイメージ的な喚起力が鋭敏になった分、これまでのような散文的文脈に即した意味の引き出し方をしなく/できなくなっている昨今の「読み」前提の表現がラノベかも、という弊社若い衆仮説とも繋がってくるかも知れない。確か、久美沙織が似たようなことすでに指摘していたようだし、それ以外でも違う形である程度言われてきてはいるんだろうけれれども、*3こういう「読み」のありようが異なってきていることと情報環境との関係は、日本語環境での人文社会系の〈知〉のありようの煮崩れ具合を相手どって考えようとする場合不可欠の視点になってゆかざるを得ないだろう。

 このあたりのお題については、話を聞いてメモをとる、ノートする、といったつながり方についても、こちらが求めているような意味での意識のつながり、身体の感覚の連携などからまずうまく実感体感されていないのかも、とずっと疑いながら試行錯誤しているのだが、いまどきの若い衆などを見ていると、日常的な「おしゃべり」をしなくなっている分、話しことばを「聞く」という経験自体が薄くなっているとしたら、ことばが作り出してゆく意味を、耳を介した音から変換して理解する能力もまたこれまでとは違ってきている可能性はあるわけで、それはたとえば、以前から触れている音楽の聴き方、「歌詞」の意味を聞き取ら/れない、という聴取作法の違いや、普通の人が普通に音楽を聴く場合にすでに歌詞は音楽を形作っている要素として重要ではなくなってきているらしい、という問題にも、また。

 例によって未だうまく説明できないのだが、たとえば「朗読」ということをしなくなった――文字を自分で発声して読んで音に変換して、それを自分の耳で聞いて、という経路でのフィードバックによる「ことば-意味」の自分自身への宿り方の経験が蓄積される機会が少なくなったことと、「言葉」を理解してゆく能力との関係がどうもありそうで仕方ない。もちろん、音楽の歌詞は文章、特に散文のような文脈を求めるものというより、いわゆる「詩≒うた」的言語の類だろうから理解の意味もまた違ってくるところがあるんだろうが、それでも耳から音として入ってくる言葉を自分の裡で意味に変換してわかろうとする経路のありようが変わってきているとしたら、音楽の聴き方も変わってくるんだろう、と。話しことばを耳にして、いわゆる意味と紐付けて理解しようとする経路と同時に、何かイメージとして映像や場面として立ち上がる経路があるとしたら、その後者の経路がどんどん鋭敏になって/させられてゆくような情報環境で育ってきたことによる「わかる」の成り立ちそのものからしてもう、少し前までのあたりまえとは違ってきている可能性があるんだと思う。

*1:もちろんそれが「洋」楽であったことも大切な要素ではあったろう。歌詞のない、ことばが音として介在しない音楽というならばそれまでの邦楽系でもよかったはずだけれども、しかしそれはまた彼らの意識にとっては彼らが聴くべき「音楽」として意味づけられていなかったという事情もありそうではある。「音楽」体験というのはそのように、彼らが生まれ育った情報環境で刷り込まれていたはずの邦楽その他も含めたいわゆる音楽体験とは切り離されたところに、別個に経験されるものだったらしい。

*2:と同時に、そういうインテリ知識人の類の「趣味」の部分までもが「情報」として、読書人層に向けた「商品」の一部分として流通してゆくようになったことも、戦後の高度経済成長期の出版市場の膨張とそれに見合った大衆的読書人層の拡大に附随したそれまでになかった事態のひとつだったのだろう、とも思う。

丸山真男 音楽の対話 (文春新書)

丸山真男 音楽の対話 (文春新書)

*3:ラノベを相手取って四つに組もうとした弊社若い衆とのここ2年の道行きの中で遭遇した、おそらく自分ひとりだったらまず気づかなかった可能性の高いいくつかの資料のひとつとして。

コバルト風雲録

コバルト風雲録