「死」が肯定的に・メモ

 アニメの変化として私が注目しているのは、【死を肯定的に捉えるようになってきた】ということ。


 ドラゴンボールみたいにどんどん生き返るのでもなく、厭世観から死にたいと思うのでもなく、死を免れようと思えば免れることはできるんだけど、それでも善く生きて善く死のうと訴えかける。


 例えば鬼滅の刃がそう。鬼になれば永遠の命を得ることができる。でも、その価値観は主人公サイドからは一蹴される。今見てる作品では『最果てのパラディン』。アンデットとして(以下略)なだけでなく、正に善く生きて善く死のうという誓いを立てる。さらに主人公が極めて信心深い敬虔な司祭で、上司の偉い宗教家もバブル期以降よく描かれてた強欲放蕩宗教家かと思わせてドンデン返し!っていう…。それだけでなくお金儲け自体をナマグサと捉えず、大志のために必要な苦労と捉えている。若い世代の変化を敏感に捉え、着実に押さえてきてる。


>死を免れようと思えば免れることはできるんだけど、それでも善く生きて善く死のうと訴えかける。


 補足
 死を免れようと思えば免れることはできるっていう設定の世界観なんだけど、その選択肢は取らず善く生きて善く死のうと訴えかける作品が目立つようになってきたように感じる


 あと、以前より死後の世界に比重を置いて丁寧に描くようになってきたかな。ここで言う死後の世界っていうのは黄泉の国みたいな感じではなく、大切な人がいなくなった後のこの世で、亡き人の行いの影響が残り続ける感じ。


 バイオレットエバーガーデンとかもそうじゃん。昔で言うとダイの大冒険のアバン先生的なポジションがいっぱい描かれるようになった感じ。

トレース是非如何・断片

 最近、写真をトレースし自分の絵に仕上げた人の話題に触れ、思い出したことがありまして、以前あるインタビューの依頼を受け、出来上がった記事に自分が回答していない内容が書かれていて「これ話しましたっけ?」と不思議に思って訊ねると「文字数が足りずweb記事で見た内容を苦肉の策で入れた」と。


 あっけらかんとトレースしたと回答され、ダメでしょ、その記事は作成元が私に謝礼を出して取材して作ったもので、あなたは自分が作った記事を同業者に勝手に使われてもいいのか、編集長の意見を聞いてほしいとお願いしたところ、「同業者への敬意に欠けた行為だった」と編集長からすぐ返事がきました。


 驚いたのは「オリジナルのコンテンツだという認識を部下が持っていなかった」、自分が基本を教えていなかったからだ、と編集長が謝罪したことでした。そんなの常識じゃないのか、それを教えるのも編集長の仕事なのか、と衝撃を受けたのですが、今後はスタンダードな仕事内容のひとつになるような。


 いっしょにコーヒーを飲んだことしかない相手が、箸を正しく持てるかどうか見極めるような難しさがあって、そんなのわかりっこないから、性悪説で「わかってるとは思うけど」と全員にひとまずレクチャーするのが、大事になる前に危険の芽を摘むためにも必要なんだろうな、管理職大変だなあ、と改めて。

遠くて叱ってくれる人、がほしい

 高2を境に人生観が変わってしまった僕の話


 中学は近所の公立中に通っていた。当時は将来に対する怖さは全く無く、友達も沢山いる環境に居た。高校は第一志望の公立に落ちてしまったため滑り止めの私立に通うことになった。新しい環境になっても高1は中学と変わらず友達と楽しく学校生活を送っていた。


 しかし高2になったことで僕の人生観が大きく変わった。自分の高2のクラスは女子の比率が他クラスと比べてなぜか多く、女子慣れしてない自分は話せる相手が居なかったのである。さらに女子同士のいじめという見てはいけないものを見てしまった為に女子に不信感と恐怖感を抱くようになった。


 いつしか僕は学校がつまらなく感じていた。そして週2、3程度の登校が2ヶ月続くようになり軽い不登校となった。この時、唯一クラス内で仲良くしてくれた吹奏楽部の副部長男子に惚れ自分がバイセクシャルである事を自覚。高2の冬になり、僕はYouTubeで「逆転合格」という言葉を知り人生が狂い始める。


 「地元の国立か早慶に行きたい」という非現実的な僕の意志と「ウチの子なら出来る」という非現実的な親の意思が偏差値40の僕を机に向かわせた。学校の内職も合わせて1日10時間勉強をするも模試では爆死。自分の弱さを受け入れられない僕は勉強マシーンとなるもメンタルを壊し結果は全落ち。


 そして浪人する事となった。だがある日、親から僕に何も言わず「予備校予約したから」と伝えられ困惑。自信喪失してた当時の僕からしたら頭の良い人が沢山いる予備校へは行きたくなかった。よって選んだ道はただ一つ。


「受験なんて捨てる」


 そして6ヶ月予備校サボり続ける放浪の日々が始まった。


 6ヶ月間、野球を観に行ったり、好きなラーメンを食べ歩いたりと自由を求め続けた。だがいつしか貯めてたお年玉は底をつき、横浜駅のビルの屋上で過ごす日々が続いた。そして10月末、とうとう親に予備校へ行ってない事がバレてしまったのである。親は怒らず呆れて笑ってたのが僕は悲しかった。


 だが自由人となった事で気持ちがリフレッシュし、11月からは勉強に熱が入った。また志望大学は今のレベルで絶対に行ける大学しか受けないと決めた。そして受験が終わり受けた大学の8割方が合格し今の大学へ行く事となった。しかし中途半端な結果で終わってしまったが為に今でも思考や精神状態は高3とほぼ変わらない。あれから完全に無気力化してしまったのである。そして友達もいない。今の僕は将来の不安や恐怖すら忘れてしまい、自由だけを求め続け、自分には無価値、無関心と考え逃避する毎日を送っている。今僕が一番欲しいものは「怒号」である。こんな僕を叱ってくれる人が欲しい。


 しかしそれが世の中では「甘え」として捉えられる。そんな世の中を正す人物が現れた時には僕はそのような御方(宗教など)に付いていきたいとも今や考えている。僕は泣けなくなってしまった。

「学校化」の遅延爆弾

 「運動」モードみたいな言葉やもの言いの運用作法を、無自覚無意識に「そういうもの」として実装してしまった人がたって、世代を越えてうっかり存在していて、それは本質的に「学校」的言語空間を制御しておくたてつけが社会の中で煮崩れていったことと関係しとる感。

 子ども~生徒の段階で、それら「学校」的言語空間に対抗する日常的な言葉やもの言いの領分が、すでに対抗的なものにならなくなっていて、それはかつて「学校化社会」とか言われていた事態のもたらしたある本質的な変化だったのだといまさらながらに思い知らされとるのかも、われわれは。

 「学校」に対抗する「日常」――子ども~生徒の段階ではそれはやはり「家庭」がドミナントだったはずが、言語空間として「家庭」を軸足にした「日常」の広がりが情報環境の変貌と共にどのように変わってゆき、何よりその中で当の子どもらがどういう情報リテラシーを実装して/させられていったのか、と。

 web以前から、それこそテレビの浸透などからそれらは始まっていたはずだが、問題はそれら情報環境の変化とそれに見合った言語空間のありかたの中で、話し言葉による半径身の丈の「日常」のゼロポイントが足場を築けなくなっていった過程があったことが、おそらく本質的な煮崩れの原因かと。

石原慎太郎の思い出

 石原慎太郎の思い出をもうひとつ。
 彼は親分肌で「俺に任せろ」と言う反面、失敗に対しては部下のせいにすることがあった。その典型例のひとつが、羽田空港国際化だったと思う。


 羽田空港の再拡張と24時間化が完成したことで、夜間を中心に国際線を受け入れる余裕が出てきた。ただ、羽田空港を国内専用空港とすることで千葉県に成田空港を受け入れてもらった経緯があるので、羽田空港再国際化を提起するには、石原氏の政治的剛腕が必要だった。


 政治的に千葉県の反対を押し切り、国営空港の国際化を政府に認めさせるところまでは、石原慎太郎の政治的手腕の面目躍如だったと思う。


 ※ちょうど省庁再編の時期で、正確な境目との関係は覚えていないので、運輸省だった時期もあるかもしれないが以下、国交省と書く。


 東京都では、空港行政に詳しい職員を羽田空港国際化担当の局長級ポストに据えて当たらせた。


 「局長級」というのは、局長相当の権限を持ってはいるが、組織としては局を構えないということ。特定の政策課題に対して、大きな権限を持って機動的に対応する体制と整えた。国で言えば「○○担当大臣」みたいな感じ。


 羽田空港再国際化が決定すると、次は費用の問題になった。羽田空港は国営なので本来は国費で整備するべきだが、国交省は「東京都が欲しがったんだから、東京都も金を出してよ」と言い出した。東京都は原則論で「国の金でやるべき」と答えた。


 国交省はここで、「羽田空港が国際化すれば、すぐ隣の神奈川県も恩恵を受けるはず」と、神奈川県・川崎市横浜市にも負担を求めた。


 石原知事は「東京都は羽田空港の整備費用を負担しない」と明言したし、担当局長にもここは譲るなと指示していた。ここで石原知事は読み違えをしてしまった。神奈川側の自治体が、費用負担受け入れを表明してしまったのだ。


 東京都は梯子を外された。これで東京都が費用負担を受け入れなければ、「言い出しっぺの東京都がケチなせいで、羽田空港国際化が進まない」構図になってしまう。


 羽田空港担当局長は石原知事に費用負担受け入れを進言していたのだが、石原知事が受け入れるなと厳命していたので、この事態を回避できなかった。本当は都県市が同時に受け入れ表明するべきだった。


 石原知事はこの事態に激怒して、担当局長を左遷してしまった。どう考えても逆ギレだった。


 で、担当局長の左遷先が、よりにもよって当時僕がいた部署だったwww


 当時、その部署は局再編で、それまでは独立した局だったのが他の局の部に統合されたばかり。そのため、局長室が空室だった。


 局長室は書類置き場兼会議室として使われていたので、僕らは慌てて書類の入った段ボールを局長室から片付けて掃除をした。業務が減少して局組織が不要となり部に格下げされたところへ「担当局長」ポストを復活させても、仕事なんかない。完全な窓際だ。


 羽田空港国際化は、その後東京都が費用負担を表明したことで順調に進んでいき現在に至るが、そこまでの実務を取り仕切った功労者であるベテラン職員が最後に追いやられた暗部を、忘れることはできない。


 石原慎太郎氏は、就任直後は東京都職員を鼓舞して仕事を劇的に変えたヒーローだった。しかし、新銀行東京など問題が起きると責任回避に回り、オリンピック誘致のような派手な政策に傾倒して、周囲もイエスマンで固められていったように思う。


 種を蒔くのは得意だったが、収穫の苦労を共にするのは下手というか、面倒がっていたような気がした。

若い日本の会、関連

 ようやく「若い日本の会」世代の時代が終わるのか。長かったなー。


 ある雑誌で谷川俊太郎にインタビューした際、石原都政批判の流れで問いかけたら、「世が世なら、反動的な谷川都知事のもとで石原がその反対派になるという可能性もあった」と話してくれた。鶴見俊輔ベ平連の顔役を、当初は小田実ではなく石原と考えていた。そんな世代の時代が終わる、ということ。


 寺山修司江藤淳武満徹大江健三郎曽野綾子。あとは誰がいたっけか。富島健夫もいたな。若い日本の会。ナショナリズムがまだイデオロギーで分断されていなかった幸福な時代の人々が、分断を残して死んでいく。

「演歌」という定型の凄み・雑感

 いわゆる演歌がいま何となく共有されているようなイメージ通りの「型」として完成されたのも概ね1970年代あたりのように感じるんだが、それ以降は明確に「歌詞」に意味を委ねる必要はなくなり、フシその他演歌的「定型」そのものが本質であるようになっていったあたり、まさに浪曲と地続きかも、と。

 その「定型」であるゆえに嘲笑され軽侮されてもきているんだろうが、でもそれって、「なにがなにしてなんとやら」でも全く構わないまでに「ことば」に意味を委ねることをあっけらかんと抛棄する境地にまで早くから到達していた本邦浪曲の、芸能としてのある「近代」性(と言うとく)にも近いのでは、と。

 商品音楽であり大衆芸能である以上、それら「歌詞」「ことば」から意味が剥奪されてゆくのもある意味必然でもあるわけだが、ただそれは表現そのものというより、それを受けとる「聴き手」の側の耳のリテラシーが、それら「定型」を希求するようになっていった、という事情も併せてのことだろう、と。

 たとえば、以前触れたような、中島みゆきの楽曲を聴いて「演歌」と判断してみせたいまどき学生若い衆らの「耳」は、そういう意味も含めての補助線として改めて立ち止まって考えてみるべき何ものか、をはらんでいたのだとおも。