文学
「演説」は「雄弁術」という輸入の枠組みを下敷きに、ある意味では物真似的に写されてゆくものでもあった。そこには言葉の調子や声の抑揚などと共に、上演する主体の身振りなども含めて割り振られるものであり、その意味では初期の「演劇」などと近い、上演を前…
*1 大宅壮一や富士正晴ら、三高人脈が「言文一致」を大阪弁でやり始めるのは相当に遅かったのではないか。 漫才作家としての秋田實が、むしろ東京からの西下組で大阪弁のダイアローグに敏感に反応していたこと。その理由や背景など。 「言文一致」と一様に言わ…
片岡義男という書き手は、あらかじめ「日本」から遠ざけられた存在でした。デタッチメントの感覚。80年代のあの爛熟した「豊かさ」の極相において、それらを突き放したところでじっと観察できる〈リアル〉を持っていた。だから、カドカワ全盛時のヒットメー…
児童文学というのが気に入らない。絵本だ童話だ読み聞かせだ、と昼日中から図書館だの児童館だの男女なんたら参画センターだの役所まわりのたまり場で、そこが当然の居場所のごとくふるまっている一群の人がた。そういう手合いがどうしてのうのうと世渡りで…
安さん、と、大宮のこと。「無法松の一生」が下敷きになっていること。 ただし、その上で山田洋次的な「はなし」の枠組みが随所に特徴的に現われてくる。舞台となる共同体≒ムラにある日ふらりとやってくる得体の知れない主人公。 流れ者で非定住で少なくとも良…