安さん、と、大宮のこと。
「無法松の一生」が下敷きになっていること。
ただし、その上で山田洋次的な「はなし」の枠組みが随所に特徴的に現われてくる。
舞台となる共同体≒ムラにある日ふらりとやってくる得体の知れない主人公。
流れ者で非定住で少なくとも良民常民ではないらしい。
それがあるできごとをきっかけに、共同体に棲み着くようになる。
その後、彼をめぐっていくつかの「できごと」が連鎖して起こってゆき、それに伴い共同体の側が右往左往する、という構図。
「なつかしい風来坊」に結晶してゆく枠組み。その後、高倉健を起用した一連の山田洋次ものに繋がってゆく系譜。
同時代的には、杉浦明平やきだみのるらの「記録文学」系の仕事が背景にも。「ノリソダ騒動記」や「きちがい部落」ものなど。
敗戦後の占領下から「独立」した頃の、具体的には昭和20年代半ばから後半にかけての日本の「地方」「イナカ」の「ムラ」を舞台にしたルポルタージュ系の作品群。
それらは当時の左翼&共産党的なイデオロギーを下地にした「民主化」気運の導かれて生まれてきたもの。同時に、先鋭的な部分としては、「山村工作隊」的な具体的な工作対象としても。
ただし、当時は政府の側も「生活改善」の対象として想定していた。フライパン運動その他含めた「生活改善」の必要が早急に認められる地域としての「ムラ」。
いずれにせよ、そのような「民主化」「進歩」「改変」がどのような方向であれ求められる存在として「ムラ」が新たに合焦してゆくようになっていた時期。
それは、空襲で荒廃した都市部出自の視線が、食糧生産の拠点としての「ムラ」「イナカ」を見る視線が基本的に「百姓」「農民」に対する深刻な怨嗟を宿していたことを足場にして、「復興」「独立」を介してもう一度、戦前昭和10年代半ばあたりまでの「都市/農村・イナカ」の図式を回復しようとする意味もあったのだろう。
「封建的」で「遅れている」「ムラ」「イナカ」とそこに生きる人々という認識。
ただ、山田洋次が際立っていたのは、それらと同時に、彼らをそのように見る側もまた等価に、等距離に突き放して見る視線を持っていたこと。労働組合に対する視線や、新たな経営方針で台頭してくる企業の経営者などに対する描き方など、善玉/悪玉図式にはまり切らない相対化を当時としてはかなり闊達に行っている。
それはひとつには、「喜劇」という枠組みがあらかじめはまっていたことがあるのだろう。同時に、当時の映画会社の営業的にルーティンとしてこさえられるプログラムピクチャーとしての位置づけがあったから、ということもあるように思われる。要は「お目こぼし」で注目されてないポジションだったからこそ、の成果だったことはあるのだろう。
時代の流れ、というのもさらに外側の枠組みとして設定されている。そして、それに対して作り手側の価値評価を基本的に表立ってしていない。植木等の狂言回し的視点がそこに重なっているわけだが、「ムラも変わった」として最後に描き出される日常光景は、当時昭和38年当時の観客のある公約数的に肯定的に受容されただろう「豊かさ」の先端的表現であり、それらが「ムラ」にまで浸透し始めていたという意味での「現状肯定」的効果を強くもたらしていたはずだ。
現在は正しい。少なくとも間違ってはいないらしい。「豊かさ」は「ムラ」にまで浸透するようにはとりあえずなってるし。そんな当時の〈いま・ここ〉から「安さん」は「あんな人物はもう出てこんでしょうなあ」というある種ほったらかしの、そして何よりも「無責任な」(その意味で植木等の起用は絶妙である)慨嘆として突き放されてそこに放り出される。
安さんがシベリアからの復員兵であること。ということは抑留体験をしているだろうこと。なのに、赤化もせずに戦前彼がシャバにいた頃の立ち位置であるはずの、流れ者の底辺労務者としてのありようをそのままに保っていたこと。
それは、「兵隊やくざ」の大宮喜三郎と比べてみてもある意味、象徴的かも知れない。
あるいはそこに加えて、「拝啓天皇陛下様」の渥美清を置いてみてもいいだろう。
さらには、与太郎戦記や二等兵シリーズのフランキー堺や伴淳三郎などの身体を想定してみるのもおそらく効果的だ。「兵隊帰り」の描かれ方の系譜。
「庶民」の自画像、少なくとも戦争を経験したオトコの「庶民」としての「われわれ」像というのは、そこでどのように描かれていたのだろうか。
「ムラ」に住む大多数が未だ現実だった状況。それらの中からマチへ否応なく出てきて、そこで定住し始めている側の意識や感覚が、当時のメディアコンテンツの消費者として公約数的に想定されていたこと。
「戦後」の民俗学的「ムラ」もまた、そのような同時代的空気や環境の中に〈リアル〉の方向へ変換されていったはずなこと。現実のムラと共に、そのような「はなし」の水準の「ムラ」の浸透と合わせて相互的に。
杉浦明平的、あるいはきだみのる的「ムラ」の汎用性&浸透力のこと。「はなし」の水準、殊に当時の情報環境を介した大衆社会状況への「はなし」の浸透力について。