つくる会、の頃・メモ

 90年代の状況で、「つくる会」が夢見ていたことというのは、今から省みても正しかったのだと思う。

 だが、その夢の内実はもちろん夢見る個々との照応関係で変わってくる。具体的には、西尾幹二の見た夢と、藤岡信勝の見た夢と、坂本多加雄の見た夢と、そしてもちろん小林よしのりの見た夢とは、全てが微妙に重なり合いながら、しかしざっくり言って全く違うものになっていたと言わざるを得ない。

 すでに時代を覆っていた「サヨク/リベラル」のデフォルトに対する違和感、というのがまず最初の紐帯だった。しかし、それは個々に位相を別にしながら認識されていたはずだ。

 「戦後」をどう認識していたか、に関わっている。ポストモダンとその中で生まれたことばと〈リアル〉との乖離状況を、どれだけ自らの思想の内側に繰り込んでいたのか、ということでもある。

 「オヤジ」と称したのはそういう意味だった。単なる生物的な年齢の違いということではもちろんなく、そのような「戦後」認識の彼我の相違と、そこに決定的(としか思えなかったし、今でもそうだ)な要因として横たわっていた主体の手ざわりのズレを、主に見定めた上での言挙げだった。

 「思想の科学」界隈に対する媚態というのが、根深くシャクにさわっている。それは、おそらく「京都学派」に象徴されるような「関西」の人文学風への違和感とも重なっている。山口昌男が実は終生抱いていたような、文化人類学民族学界隈の地図の内側からの「関西」ノリへの違和感が、もっと敷衍した形でしかし、わが国の人文科学界隈に間違いなく存在していた。あたしにとってそれは、鶴見俊輔のまわりに蝟集する手合いへの嫌悪感としてまず認識されていた。

 だから、鶴見の息子がさかしらに民俗学を口にし、大間知篤三を喋々するのを見るにつけ、どうにも不愉快な思いがするのだ。「民間学」などと言挙げする手合いも同じだ。