秋葉原「通り魔」事件・雑感

 先日の秋葉原「通り魔」事件。いろんな反響を呼んでいますが、犯人の加藤某、青森の進学校出だったそうで。古くは太宰、寺山修司の後輩になるとか。
 でも、ああ、やはり決定的に「無知」でした。およそ腹立たしいくらいに、たとえば、四十年前、あの永山則夫と同じような意味で。

 世の中への怒り、社会の仕組みへの不満、といった説明がされるのはもうお約束。おたくが悪い、ダガーナイフが、いや、派遣業が、と「真犯人」探しも、これまた言ったもの勝ち。果ては、テロだ、格差社会の矛盾が原因だ、とさかしらに煽るバカまで出る始末。この手の事件報道じゃ不動の四番「中学時代の卒業文集」も大活躍。マスコミ、芸なさすぎです。

 おまえが辛いのは確かで、それにはきっと理由がある。だとしても、その理由の拠って来たるところがまるで見えない。なのに、その見えないままやみくもに自爆するのは単なるはた迷惑、社会の敵。こんなもの、断じてテロなどであるわけがありません。

 難波大助にも安重根にも「死なう団」にも山口二矢にもならない、なれない。おのれの辛さを社会にも歴史にも関係づけられず、だから「革命」にも「改造」にも収斂しない。そのことの意味と理由をこそ静かに考えようとしないことには、弱いものが弱いものにだけなけなしの力を行使し続けるような世の中は、変わらないでしょう。

 だから、こういう手合いがいたら、向かう先はそっちじゃないだろ、と、どやしつけるが吉、です。じゃあどっちなんだ、と問われると、ちと困りますが。