「偏見」と呼ばれているようなものの見方や考え方もまた、それが何ごとにか基づいた見方や考え方である以上、ある種の真実を含んだものでもあること。あらかじめそれを「偏見」だと決めつけてひとつのハコに効率良く合理的に放り込むようなことばやもの言いの使い方だけを実装してしまうと、その「ある種の真実」はほぼ初手から見えないものになってしまうらしいこと。
そうなってしまうからこそ、その「偏見」と決めつける効率的で合理的な枠組みは多くの場合「確かにそう思える」「すっきりと説明してくれる」ものになっているのだろうが、しかし、それもまた異なる文脈での「偏見」かも知れない、という留保はすでに確保されることもないまま大きな声に収斂してゆくのが常であるらしいこと。
経済学(でも何でも)で説明できようができまいが、あの「低賃金カルテル」ってのは「あ、それそれそういう感じ、リクツとか(゚?゚)シラネだけどなんかあるあるだし、とりまそれですっきり説明できるし」てな共感、モヤモヤしとったのがすっきりする感こそが本質なんだと思うんだが。
●……それじゃシャカイガクの二の舞いになっちゃうんじゃないっすか。
○……可能性はありますよ、当然。民俗学なんかも同じく。
●……モヤモヤ→スッキリ』っつー回路は、『真理の探究』たる学問とはやっぱり分けたほうが良い気がするんすけどねえ。
○……「科学」ベースへの信心が明確に持てる/持たんとワヤになる分野は当然そうだと思います。ただ、人文社会系(別にガクモンの専門性とか関係なく)はどこかでその「モヤモヤ」「スッキリ」も含めた「真理」が現実に含まれているところがあるんだろう、と前向きにあきらめとるところが極私的にもあります。「われわれの大方が概ね真実だろうと信じるところを積み重ねてゆくしかない」(大意)ってのはかつてある時期最も尖鋭かつ本質的な柳田國男(とその流儀な民俗学)批判者だった御仁の、そういう人文社会系〈知〉についての認識でした。あたしもこのへんは共有しよう/するよう努力し続けようと思とります。
●……理屈で割り切れない『モヤモヤ』があった場合、モヤモヤする自分の気持が正しくて、それに合わせて新しい理屈やスローガンをこさえる、っつーのは誠実な態度じゃないっすよ。んで結局『モヤモヤ』が間違ってて古い理屈のほうが正しかった、てのもよくある話でw
○……基本その通りだと思います。少なくとも〈知〉に根ざした態度としては。ただ、その「正しい」かどうか、というのもまた本質的な目的地かどうかという問題はそれでも残り続けてその「モヤモヤする」を再生産してゆくものなんだろう、と。
この「モヤモヤ」が正しくないし科学的でもないのはわかってるし確かにそうなんだと思う、でもじゃあそれでも消えないこの「モヤモヤ」ってなんなんだろう、というところまで最低限留保した上での立ち止まり方ができるかどうか、かと。もちろんそれは誰にとっても必要なものではないにせよ。
こういう余地まで全部ひとくくりに「正しい/正しくない」で律してしまおうとすることでは、そういう「モヤモヤ」もまたわれらの現実≒〈リアル〉である、という認識は持たれないままなんだと思うとります。