「ブラック」環境とポンニチマインドの関係・メモ

 日本人って話し合ったり議論したりした結果、より良い結論が出たり、それによって良い結果につながったりってことになるの、実はものすごく確率低いんじゃないだろうか。特にここのところずっと。

 「闊達な議論」だの「忌憚ない意見交換」だのなにだの、それがほんとにうまく機能した/できた事例自体が成功/生存バイアスありきの「おはなし」だったりするとはおも、雑な一般論としてにせよ。本邦ポンニチマインドwと「組織」の関係とか。まあ、その組織の規模やありかたなども変数になってくるんだろうが、たとえばよく言われる旧軍に対する評価――兵隊最強下士官優秀そこから上に行くほどバカばっかに、ってのもあれ、「組織」の規模が半径顔見える&気心知れる範囲≒上限ムラ的コミュニティ設定に関してはものすごく機能するコミュケーションのありようと関わってたんだろうと思う、そこを踏み越えたら途端にフリーズ&機能しないのと併せ技で。

 じゃあそれは「チーム」だったかってえと、欧米ガイジン文脈でのそれともまた別モノだったところもあるような。戦後のスポーツ、殊にチームスポーツ系で本邦ポンニチ旧軍的コミュ一択で無双できたこと、そしてそれがある閾値越えたら一気に無力化されたこと、などともどこかで関わっとるような気が。

 いわゆるあのワタミン的ブラック環境にしても同じことで、あのフォーマットで無双できた環境なり条件ってのは確かにある/あったらしくて、な。ただ、それを実践して稼働させてゆくこちら側の生身自体からして別モノになってきとるあたりをあれらワタミン的なるものは考慮せん/でけんわけで。やりがい搾取、でも何でもとにかく「結果」出せて、なおかつ組織自体も中の人がたもそれなりに継続的に安定してシアワセになってゆけた条件ってのがある時期まで確かにあり得たとして、じゃあそこから何がどう変わって昨今のブラック環境の無惨になったのか、ってことも実は重要なんだとおも。