メロス症候群について・メモ

JAYWALKの歌で、一人で世界中の悩みを抱え込む、と言った内容の歌詞がある。世界の現状を嘆いていたら、彼女を寂しがらせ、悲しませ、ついにサヨナラを告げられる内容。「メロス症候群」は、世界の悩みを一手に引き受ける英雄的気分を味わいながら、周囲を見下す困ったところがある。


HOUNDDOGのff(フォルディッシモ)も、メロス症候群。恋人を泣かせても俺は進む、俺は夢を決して諦めない、と豪語して突き進んだクセに、急に手のひら返して「いやもうお前だけ」と、女性にすがりつく。いやもう、お前それなんやねん。


やしきたかじんの「やっぱ好きやねん」で登場する男も、メロス症候群的。大言壮語を吐く割には、都合が悪くなると、自分をどこまでも許し、甘やかしてくれそうな女性にすがりつく。しかも手ひどく裏切ったのに。やしき氏の番組のゲストの女性が「この歌嫌い」と言ったのも分かる。

「メロス症候群」は、世界の理不尽を嘆き悲しむことで、自分を凡人から超絶した人間と位置づけ、不満を持たずに平凡に暮らしている人間を凡人と見下し、自分を一気に高みに立った人間だと評価する。しかし実態が追いついていないので、歯車がいろいろかみ合わない。


「メロス症候群」は、無駄に正義の行動を起こす。しかし実態を無視し、自分を「凡人から理解されない、悲劇のヒーロー」と見なしてるので、うまくいかないのは凡人たちがあまりに無理解で非協力的だからと周囲を攻撃、その不道徳をなじる。迷惑千万。


いや、かくいう私も「メロス症候群」だったし、いまでもそのケがないかというと、あるかもしれない。だからこそ言語化し、戒めとしたい。私は、義憤に駆られること自体は否定しない。ただし、行動するなら小さくていいから有効な手を打とうよ、大言壮語、悲憤慷慨はいらないよ、と思う。

マザー・テレサは、ひたすら、死にゆく人たちに寄り添う活動をした。あれだけ名声を得れば政治活動をしても不思議ではないが、あくまで現場重視だった。彼女は、全くメロス症候群からは無縁。てきることを一つ一つこなした。


ナイチンゲールは、医療の世界を劇的に変えた。ただし彼女は大言壮語を吐いたり悲憤慷慨することはなかった。なんとか患者を救いたいと、現場に立ち、現実を一つずつ変えていった。「メロス症候群」とは無縁。


どんなに小さなことでもいい。自分の身近な人にだけでもいい。ほんの少し、優しさを。相手の幸せを思い、楽しませることを。それで十分、「メロス」より偉い。市井の小さな営みは、実は世界をよくする行為。あなたの優しさが一人を救う。その人がまた、誰かを。やがて、世界へ、さざ波のように。


行動に移すのが怖いなら、「祈る」だけでも結構。「赤毛のアン」のマシューは、恐らく、アンの努力をいちばん促した力だと思う。アンが喜べば嬉しくなり、アンが落ち込むとオロオロ。アンの幸せを祈るばかり。けれど、アンはそれこそがエネルギーになったのだと思う。


大言壮語も悲憤慷慨も不要。それよりは、誰か一人でよいから、その人の幸せを祈ること。それができたら、あなたは少し、世界をよくする方向に動かした、と思ってよいと思う。