体制としてのリベラル・メモ

 リベラルで、人権活動をして、与党や政府に反抗するといった”反体制”というのは、僕らの世代にとってはちょうど親世代…あえて口悪い言い方すると”おっさんおばさんの文化”なんだよな。


 で、つまり、僕らにとって”リベラルな反体制”っていうのは、反感を抱く体制であり権威側なんだよね。このへんが、根本的な感覚の違いなんだよな、きっと。

 そっち側の若手論客、本当に何書けばエライ大人が喜ぶかきっちり押さえて内在化してますよねぇ。平たく言えば「先生に好かれるいけ好かない優等生」ということになりますが


 別にどんなに数学の先生が嫌な奴でも”1+1=2”なのは間違いないので「だから奴らの考え方は駄目だ」とか言うつもりは特にないんですけど、いかにもエライ人に気に入られそうな”反権威的な若者”の発言みると乾いた笑いは湧いてきますね。

 分かります。実は自分も元々はアナキズム寄りのド左翼で、往時のロック聴いて全共闘やらベ平連やらその辺のルポや書籍も結構読んできた上で言うと、さすがに今の世の中でアレの復古運動されても冷めてしまいます。物分りが悪いふりをしたお行儀の良い同世代に。「化石賞」は彼らにこそ相応しいと思ったものですよ。

 国連提唱SDGsは、差別、環境問題など、リベラルな反体制の人が社会正義運動としてやっていた内容が、多く取り入れられていますね。
いまや、国も大企業も、参加をアピールしなければならない、体制側の目標、権威になった。それらが建前だけなら、胡散臭さもずっと大きくなったわけですが。


 環境問題は、もはやグレタのような反抗的な子ではなく、政府が使う優等生お嬢さんモデルのトライデン直美さんのような人が訴えるようになって、ツイ民の反発が激しいですね。