「読む」ことの現在

 電子出版業界では、だから(売るためには)コンテンツのマイクロ化だ、とかなる訳だけど、そんなこと言ってる場合なのかな?いや、別に一冊の本読み通せなくてもそれなりの知識が得られてそれなりの教養が構築されるのかな?

 文字や活字を「読む」ということが、一定の集中と意識の意図的な制約によって、文脈や脈絡といったある種直線的な流れを仮構的に作り出してゆくことだった時代が、もしかしたらもう少しずつ別のものに移り変わりつつあるのかも知れない。これはいまどき若い衆世代にとっての「読む」が、どうやら自分たちがあたりまえにそのようなものだと思っていたような、直線的な文脈を自明の前提としたものではなくなってきていて、彼ら彼女らは一定の分量の文章をその文脈に沿って「読む」ことができなくなっている、といった現象としてそれなりにさまざまに指摘されてきていることでもあるけれども、ただしそれは表層的なとらえ方に過ぎないかも知れないのであって、その向こう側に彼ら若い衆世代らの感覚に沿った新たな「読む」が発動されているのではないか、という留保は個人的にもずっとある。

 vivacious という見慣れない英単語を、未だに思い返してみることがあるのは、このような「読む」を改めて立ち止まって考えようとする時の癖みたいになっている。辞書的には「陽気な」「快活な」といった意味が第一義に書かれている単語だが、こちらが迂闊だったのか、かつてのいわゆる受験英語でも見かけなかったし、その後もそうそう出喰わすことのなかった自分としては珍しい言葉ではあった。それをどうしてそんなに思い返すのかというと、例によっての柳田國男になる。彼が、どこかで読書について、つまりここで言っているような「読む」ことについて言及していたものに、自分たちのような近代の情報環境で社会化してきた新しい世代は、それ以前の近世的な環境で「読む」を自分のものにしてきた年上の世代の文字の読み方と明らかに何か違う読み方をするようになっている、その自分たちの「読む」を規定している性格をあらわすのにこのvivaciousという英語をわざわざ引用しながら説明していた、その一節を鮮明に覚えているかららしいのだ。

 自分たちのような新しい世代の「読む」は vivacious なものになってしまっている――元の文章にあたることをしないで記憶の中での印象で語ると、概略そのような意味のことを彼は言っていたはずだった。それが辞書的な意味の「陽気な」「快活な」といった単純に前向きな意味でないことは、その文脈でわかった。それは集中と持続によって文章のその文脈に異様なまでに意識を集約・凝集してゆくような、彼よりも当時年上の、明治以前の近世的情報環境での「読む」を身につけていた人たちの読書習慣との距離感と、そのような距離を感じてしまう明治生まれの自分たちの世代性を「そういうもの」として肯定しながら、しかし同時に、すでに決定的に失われてしまっているらしい「読む」資質についても語ろうとしたものだった。

 「陽気」で「快活」とは、柳田の所論で言えば近代的な、都市的な人間の属性である。ただそれは同時に、あれこれと興味関心が移り変わり、一点に集中して持続させることの苦手な、軽佻浮薄な性格ということでもある。その双方を含めて、複雑な意味あいを込めて彼はそこでその vivacious という英語を使っていた。

 全体に気が軽く考が浅くて笑を好み、屢々様式の面白さに絆されて、問題の本質を疎略に取扱ふこと是が一つ、群と新しいものの刺戟に遭ふとよく昂奮し、しかも其機会は多く、且つ之を好んで追随せんとしたが故に、往々異常心理を以て特殊の観察法を指唆せられたこと、是がその二つである。次には何に使ってよいか、定まらぬ時間の多いこと、さうして何か動かずには居られぬやうな敏活さ、是が亦容易に他人の問題に心を取られ、人の考へ方を自分のものとする傾向を生ずる。

 若い衆世代だけのことではない。文脈を集中して、持続して追うことが自分たちもできなくなり始めている。そういう自覚は否応なくある。Twitter との接触時間が長くなるにつれて、いやそれだけでもなく、ノートパソコンを開いた環境で初めて本や資料を「読む」ことができるような感覚すら、立ち止まってみればすでにかなりあたりまえのものになっているらしい。それは、「読む」ことが単にこの自分の意識の、生身のひとつの身体の裡においてだけ完結するものでもなく、同時に複数の「読む」を断片的に、その場その場の必要に応じて断続的に駆使してゆく、だから作業しているのは間違いなく自分であっても「読む」の主体は自分にだけ成り立っているわけでもない――ああ、例によってこれもまた未だにうまく言えないのだが、何かそんなものになりつつあるような気もしている。

 だって昔なら、夜中にふと「〇〇って映画の監督誰だっけ」って思うても調べ様がなく、わからぬ事として心の中にわだかまるだけだったんですよ。今なら何でも検索したら出て来る。つまり脳の容量の外部化というか知識を溜め込むことの重要度がかなり下がった。*1

*2

*1:凍結されたアカウントのtweetより。大事な断片として手もとに記録、保存してゆくことを日々やるようにしてきていて、それらを足場にして何か考えなり何なりがまとまりそうになると作業をして、ここにアップするということを繰返しているから、記録、保存した時点での日時とアップの日時がずれるのが通例になっているのだけれども、これもそういう意味で半年以上前の記録、保存のおかげ。ただ、凍結されてしまったので痕跡だけがたまたま手もとに残っていたのでここで使わせてもらった。https://t.co/e9XHiBIVhw— dada (@yuuraku) April 3, 2019

*2:そういう意味でこのNOTES、アップした日付が前後するのが通例なので、古い日付(と言ってもせいぜい半年から数ヶ月内外のはずだが)で新たなエントリーが追加されていることが普通にあるのでそのへんは平にご容赦。だから、たまにさかのぼって「発見」していただくような事態になるのならありがたし。

「枯れる」ということ

 能力の劣化老化ってプラスの方向の能力が落ちるだけでなく、逆の方向でもあると感じる。うまく言えないんだけれども。

 前向きの能力に見合った余裕というか、強弱つけたり良い意味で手抜くべき所で抜くことができたり、そういうところも同じく劣化老化してゆくような。プラスの方向の能力に見合った余裕余力、視野の広さとかそういう部分も、劣化老化に伴ってできなくなってゆく感じ。単に無理がきかなくなるとか体力がなくなるとかだけでなく、そのなくなってゆく分に比例して全部が縮小萎縮してゆくような印象なんだが。

 「枯れる」ということの内実。単にプラスの方向の能力や体力などが減衰してゆくだけではないらしいこと。プラスの方向に伴って担保されていた余裕や視野、調整や制御できる範囲なども一緒に狭くなってゆくらしいこと。そういう意味で「枯れる」過程で初めてまた「見える」「わかる」ことというのも、どうやらまたあったりするらしいから、ニンゲン生きてくってことはいろいろとオモシロくもまた興味深いものらしいなぁ、とかいろいろと。

 プラスの方向の能力体力などが大きいとそれだけ逆方向の余力や視野も広がる理屈で、全体として選択肢が増えたり大きな仕事に届いたり出来るんだけれども、でもだからと言ってプラス方向のそれが大きければ大きいほど有利なのか、というとそう単純なものでもないらしく。やみくもに能力体力任せに突き進むだけだとそれに伴う余力や視野の広さとその利点をみすみす気づかぬまま、というのも割とありがちのようで。「若い」「青い」などとネガティヴに言われる事態というのはきっと概ねそういうことの表現でもあるんだろう、と。

 でも、そういうことも或る程度トシ喰って「衰え」や「枯れ」が自覚できるようになって初めて思い当たる可能性も出てくるものらし。できなくなったこと、によって初めてそれによって担保されていた余裕や視野に気づいてゆけるんだが、でもそれは必ず「後知恵」としてでしか訪れないものでもあるらしく。

「自分の意見」と底辺クラスタ、他・メモ

 インターネットに長年引きこもっていたような、底辺クラスタの人は、ネットに転がっている情報を集めて、それっぽくパクって書いて知っているフリをするのは、慣れているみたいですが、長期引きこもり故に、実学や現実での経験が足りないから、言っている事が悉く人生エアプっぽくなるんですよね。


 底辺クラスタ特有の、虚言人生エアプの社会語り。アートマンとかも、「娘と公園に遊びに来た」とかついーとしながら、どう見ても盗撮やんみたいな、アングルの幼女の写真あげていましたし、自称勤続十年越えた公認会計士なら、当然知っている事を知らなかったりで、人生エアプ感満載でしたし。

 
 底辺クラスタの今の姿って、青春をインターネットに引きこもって過ごしたロスジェネ(+ちょい下の)世代が、歳をくうとどうなるかの見本市ですよね。SNSで青春を過ごしているであろう今の陰キャの十代二十代が、10年後とかに彼等のようになるのか、はたまた違う結末になるのか、見ものです。


 アングラサイトで青春を過ごした元若者が、ついったで底辺中年になるのは証明されましたが、SNS経由だけで交友関係を構築している、陰キャの若者が、今後彼等と同じ道を歩むのかどうかは、興味があります。SNSでの交友は、リアルでの交友の代替となるか否かの社会実験。

 「パクツイ」とか「エアプ」とか、Twitter周辺から出てきたもの言いは、概ね相互のコミュニケーションに関する部分での言わばバグやジャムり的な現象について名づけられてきたものが多い印象がある。それは、文字の読み書き作法の現在に関して言えば、たとえば「引用」や「参照」、「参考」などのやり方や慣習法的な意味でのルールなどがいろいろ変わってこざるを得なくなってきているらしいこと、などとも関わってくることだろうと感じている。

 ちょっと聞きかじったり読みかじったりした知識や情報を、そのまま割と臆面なく会話や授業で「引用」する習い性などは、おそらくこのへんと近いものだと思う。「引用」と言ったが、要は「シッタカ」の知ったかぶり程度のもの以上でも以下でもない。聞きかじり読みかじった断片を自分の中でいったん吟味したり確認したりすることなく、あ、そういうことなのか、という鵜呑み丸呑みに近い回路でバッと「自分の意見」のように取り紛れさせて放出する。

 で、ここがポイントなのだと思うのだが、そういう人がたのほとんどに「悪気は(ほぼ)ない」らしい。なぜなら、どうかするとその「シッタカ」の「ネタ元」であり側、こちらならこちらにまで「これでいいのかな?」などとその見事に「パクツイ」「シッタカ」した書きものを見せて確認にこられたりするわけで、何というか、自分にとって「役に立つ」と思った知識なり素材というのは、ある意味共有資産、誰もが自由にアクセスして使いまわして構わないオープンソースwの「情報」として見ているんだろう、と判断せざるを得なかったりする。なにせそういう人がた、悪いことをしている、という認識や後ろめたさなどは感じられないから、きっとそういう性格、もしかしたらビョーキかも知れないけれども、だからと言って正面から糾弾したりしてもこりゃ始まらんな、と思わざるを得ないわけで、このへんはフラットな「情報」源としてweb環境からあれこれ引っ張ってきて切り貼りすることを「キュレーション」などと称して過剰に正当化する向きなどとも、通じてくる何ものか、だと思う。

 こういう身ぶり、身近な見聞だと高校の教員あがりの人がたに顕著な症状のように思うのだが、果してそれは一般的なものなのか、ある程度の背景やそれなりの理由などがあってそうなっているのか、などについては、継続審議のお題のハコに入れてある。

謎の「100億」伝説

*1


 本邦いまどき企業風土の問題の一角として。いわゆる「団塊の世代」言説に象徴されるような「いまどきのジジイたち」問題の神話性wとは別に、現実的には高度成長期ネイティヴがすでに幹部経営層の中核になり始めていること、それが前から触れている「50代アラカン世代の煮崩れ転向無責任問題」にも関連してくるらしいこと、その他含めて。

 経済学や経営学など、それら企業と経済活動にまつわる分野を「研究」する領域はいくらもあるだろうが、それら既存の学術研究の間尺と視点とは少し別なところで、それこそ民俗学的な(と敢えて言うことも実はないんだが)視点からの問いもまた、こういう時代こういう状況だからこそ、なにげに効きがあるはずだからして。

 誰からともなく言い始めた「大企業なら新規事業でも100億」説は、ここ10年ほど、日本の開発力を無駄に削いだ可能性がある。遅きに失してるとはいうものの、100億説、やめてまえ!今からでも、タネを地道に育て始めろ!ちっちゃいことバカにしたら大きなもの育てられへんわ!


 誰だ!「大企業なら新規事業は100億見込めなければならない」なんて言説を広げた奴は!分野が全く異なる大企業三社がそろって「100億」と言ってるところをみると、著名なビジネスコンサルタントか経済学者が広めた可能性がある。どこのどいつだ!

 立場も経歴も、依って立つ地盤や背景なども違っているのに、そこで出てくるもの言いがどこか揃っている、似通っている、それだけで何ものかの表現になっている。この感覚はかなり大切なものだ。うっかりとその「説明」や「意味」を性急に求めようとしない限りは。そこにさえ立ち止まって留意できているならば、そのような感覚は身の丈の現実に即した対応の処方箋へと着実に向かう可能性を宿してくれる。

 新規事業を立ち上げたばかりで、100億売り上げられるかなんて、事前に分かるはずがない。なのに「本当に100億稼げるのか、もしダメだったらどう責任をとるつもりだ」と問いつめて、新規事業をポシャらせる大企業が続出。この意味不明な「100億」説のために、有望な事業が次々潰されてる可能性。


 あれだけイノベーションを立て続けに出していた日本企業が、小泉政権あたりから、新規事業がまるで立ち上がらなくなった。小泉元首相の「強いリーダーシップ」幻想にとりつかれ、現場に耳を貸さないリーダーが日本中ではびこったあたりからおかしくなった。


 今でこそ飛行機まで作るようになった炭素繊維なども、使い道と言えば釣り竿くらい、という、産業規模としては必ずしも大きくない時代を長く続けてきた。それをコツコツ育ててきたから、今、世界で注目される技術に育った。炭素繊維が生まれたての時に「100億」説を持ち出したら潰れてただろう。


 日本企業は、少なくとも90年代までは、どう育つか、どこまで育つか分からない技術のタネをたくさん抱えていた。しかしもし、大企業がこぞって「100億の見込みのない事業は見直し」なんてことを言ったら、新規事業で育つものなんて何もなくなってしまうだろう。まさにその状態なのではないか。

 ことばが自分たちの手もと足もとの現実から、そこに紐付いたものとして、別の角度から言えばそこで生きている自分たちが確信と共に制御し得る道具として、いずれゆっくりと迂遠な手間と時間をかけて紡ぎ出されてきたものではなく、それら現実を手早く「わかる」「意味づける」「説明する」ための「役に立つ」ツールとして既成品を探して拾ってくるものになっているようないまどきの多くの現場においては、ことばは常に目新しく、耳障りもよく、切れ味すら鋭く見えるものにだけなっている。だからその分、そのようなことばやもの言いは誰もが使いたがるようになるし、また使いたがっても別に不思議はないくらいには「誰にとっても役に立つ」道具として見えているものらしい。そう、まるで規格の揃った「便利な」工業生産物のように。

 そして、そんな工業生産物のようなことばやもの言いを要領良く探してきて、うまく使い回すことが「賢い」ことであり、それが生きてゆく上で最も「効率的」で「合理的」な「スキル」であることを、育ってゆく中で知らず刷り込まれていた人たちというのが、すでに本邦の中堅から中核を占めるようになっているらしい。そういう時代、そういう年回りに本邦は現在すでにさしかかっているという眼前の事実と、そのことの意味について考える足場すらうまく設定できないままらしいことについても、また。

 もう一つの可能性は、「バブル世代」が自然に広めた可能性。今や大企業も、開発方針を決める重要なポストにいる人間は、バブルの頃に就職した世代。この世代は、日本が圧倒的な力を誇っていた時代に働き始め、規模の大きなことが当たり前と思ってる。


 「うちみたいな大企業ともなると、10億程度のチマチマした事業をやってたら効率が悪い」という考えを持っても不思議ではない。実際、クロ現の取材中にもそうした発言をする大企業幹部が出演してたりしてるくらい。バブル世代は金銭感覚が少しおかしい。10億がちっちゃく見えるかもしれない。


 開発方針を決定する立場に、バブル世代が就任してるタイミング。これが日本の大企業のどこにでも起きて、自然と「100億」説が広がった可能性がある。「俺たち大企業ともなれば、みみっちいビジネスはできないよね」という、バブルな感覚で新規事業をしたら、育つものも育たない。


 新規事業はゼロから育てるんじゃ!世界一足の速いボルトだって、赤ちゃんの時はハイハイから始めとる!生まれてすぐに走ってる赤ちゃん、見たことあるのか!恐いわ!新規事業で100億求めるのはそういうことや!

*1:「育てる」ことができなくなっているかも知れない本邦の現場。時間と手間をかけて「変わって行く」ことを信じるだけの留保や立ち止まり、「おりる」感覚が現場からなくなっていった過程についても。

「田舎」「貧乏」「高学歴」・メモ

 「分断」と言い、「格差」と呼ぶ、昨今いまどき〈いま・ここ〉の裡に確実に「ある」と大方が思い、実際に日々感じるようになっているそのような味気ない現実のありよう、についてのさまざまな「小さなことば」の断片たち。

 「田舎」ならばマチ、ないしは都市が、「貧乏」ならば金持ち、リッチ、勝ち組が、「高学歴」ならば「低学歴」、ものさしに応じてMARCH、Fラン、底辺、あるいはDQNやウェーイなどまで含めて、いずれそれぞれさまざまなもの言いが〈それ以外〉として想定されているはずで、その〈それ以外〉の側から、または〈それ以外〉を際立たせるために、これらの断片たちは敢えて吐き出されているようにも感じる。
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 「高学歴の世界」に生きる人々は、決して冷淡でもなければ無知でもない(むしろ半数以上が穏和で心優しく知識に富む人たちばかり)。ただ同じ日本に住む「低学歴の世界」に生きる人々というものを、アフリカの難民や欧米のストリートチルドレン以上に「想像できない」。そこに大きな断絶がある。


 「高学歴の世界」の人々は、アフリカの難民や欧米のストリートチルドレンについては、学校教育や家庭の蔵書、テレビのドキュメンタリー、あるいは海外旅行などで知り、考える機会がある。でも同じ日本の「低学歴の人々」については知りうる機会が全く無い。知る機会が無いということは想像もできない。


 また田舎者低学歴のツイートが流れてきてるが、何度か書いたように、田舎には「田舎のエートス」と呼ぶべきものがあるのよ。どっちが上とか下って話じゃない。もし高学歴都会人が田舎に下放されたら、その人は田舎で快適に生きるために田舎のエートスを身につけるか、もしくは神経症を病むしかない。


 小学中学の同級生「だけ」と、一生つるまなきゃいけないと考えたら、都会とは根本的に生活様式が変わる必要があるってのは、都会人にも想像できるんじゃまいか。

 田舎者が書籍を一切買わずに車の改造するのも、仕事帰りにパチンコ行くのも、高校卒業の直後に彼女をうっかり妊娠させるのも、高学歴都会人からすれば野蛮なサルにしか見えないだろうが、田舎者が田舎でこの先生きのこって快適に過ごし親族を再生産するための、精緻な効率的なタクティクスなのよ。

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 〈それ以外〉を際立たせることの必要を、皆概ねどこかで感じている、とりあえずそのことだけはどうやら確かな同時代感覚らしい。現実の自分がどのような場所にいて、どのように生きていようが、想像力としての「現実」「世間」の輪郭をひとまず確かなものにしてゆこうとする時に、どうしてもそのような〈それ以外〉の存在を、ある形象として想定しておかねばならなくなる。そのようなココロの働き、意識のからくりの上に、それは時に「田舎」になり「貧乏」になり「高学歴」にもなるものらしい。

 問題は、それら〈それ以外〉の形象、表象、もの言いの類が、さてどのようなことばともの言いとで語られようとしているものか、その向こう側にどのような「現実」「世間」の手ざわりを模索しようとしているのか、例によってのことだが、自分などの問いはそのあたりのことになってゆく。

「いなか」と若者

 彼は地元出身で地元の会社に勤めている。今までも地域の集まりやイベントの準備、手伝い等も率先して参加してきた。というか地元の先輩や年寄連中がいるから仕方なく、というところが強いんだろう、たぶん。そしてこの泣く子も黙る少子化社会、僕ですら若手に入れても片手で数えるほどしかいない。


 その少ない「若手たち」に年寄連中が言うんです、「これからは全部お前たちがやるんだからな」。今まで数十人でやっていたことをたった数人に丸投げする。せっかく地元にいて顔も出してくれていた若者は休日をすべて地元のために捧げ、疲弊し、だんだんと休みがちになり、コミュニティから離脱する。


 もうバブルの頃のように夕方17時に仕事が終わって土日祝は必ず休める時代ではない、それを理解しないまま「俺たちもやったんだからお前たちもやれ」ではもうついていけないのだ。可哀想なのは「真面目に顔を出していた若者」がその餌食になり、他にいるはずの若者に対して頼むことはしないという姿勢。


 こんなのジリ貧になるに決まっている。そしてまた「若者が少ない」と年寄連中がボヤく。もう一度言うが、田舎に若者はいる。いるんですよ。田舎の中高年の方、もしあなたの田舎に積極的に集まりやイベントに参加してくれる若者がいたら、気を遣ってあげてください。結婚して若い子供がいる方なら尚更。


全ての、とは言わないが田舎のコミュニティはまるでブラック企業と同じことをしている。自覚なく若者を食いつぶしている。「伝統だから」とか「地域の決まりだから」というのは、時代にもう合わないかもしれない、ものによっては減らしたり無くしたりと柔軟にならなければならない。田舎も人も。

 「地方」と「中央≒都市部」、後者はいまどきのトーキョーエリジウムになるわけだが、その間の「違い」「落差」「格差」が昨今本当に見えにくくなっていることは、なにも具体的な衣食住、生活レベルのあれこれに限ったことでもなく、こういう人間関係やその上に成り立っているはずの「場」(「社会」とまではいきなり大文字化せぬが吉)のありようなどにまで「平等に」見て取れる現在ではあるらしく。

 ブラック企業とこういう地方のコミュニティ≒「いなか」がやっていることが基本的に同じ、という認識はまず正しい。正しいし、そういう認識から個別具体での対応対策身の処し方を考えてゆかねばならないという意味でも、間違ってはいない。いないのだが、しかし同時にまた、じゃあどうしてそういう風に双方が地続きであるかのように「同じ」に見えるようになっているのか、それは昔からそういうものだったのか、などといった奥行きを伴った自省、立ち止まりにまではなかなか行き着けないものでもあるらしい、良し悪しともかくとして。

 だから、この「若者」を「外国人」に、それが留学生であれ労働者であれ置き換えてみることが、何かとりあえずの解決策、役に立つ実践的な処方箋だと考える向きが昨今、なにも政治家役人財界だけでなく、そこらのフツーの人がた、世間一般その他おおぜいに至るまで何となくの多数派、それこそ言わずもがなの「空気」「気分」にまでなっているらしいことについて、どうしてそうなったのか、その背景には何があったのか、などについての問いを共有して行くようにも当然、なりようもない。

 「いなか」は「ある」。ブラック企業とも地続きのような見え方、現われ方をして眼前に「ある」。その「ある」という認識の上に、ならば果してどういうことばを次につむぎ出してゆく必要があるのか。それは本当に「いなか」なのか。「いなか」とくくってしまうことでかえって見えなくなってしまっている領域はそこには「ない」のか。

 たとえば、引用tweet中にある「コミュニティから離脱する」ことが、「いなか」であれマチであれブラック企業であれ、うっかりできるようになったことが本邦戦後このかた達成してしまっている「豊かさ」のひとつの現われ方でもあるのだろうけれども、その「離脱」した先、その場からいなくならないのだとしたらさて、どのようなあり方でそれまでと同じその「場」に存在して生きているのだろうか。

「義理」と「人情」

 「非対称」だとすわりが悪いんで、「生きる世間の違い」に根ざした「(選択できない)違い」みたいなもの、だととりあえず解釈するようにはしとる、自分的には。

 そういう存在(≒(言葉本来の)「他者」)が「この世」にゃ同じように生きとる、でも生きる世間が違う、という認識。そういう状態をどうこうしよう、とかはまず思わないし、思ったとしたらそれは「発心」の類、信仰の水準に足踏み入れるんだろうな、と。

 ただ、どうこうしよう、こんな自分が、とは思わないけど、でもたまたま身の丈で眼前に対峙することになったら、自分のできることをする、というスジの通し方。それを通しておくことは「実利」にもつながる、という認識も含めて。

 「情けは人のためならず」とか、あるいは軒付けや押し売りの類に「買ってやる」「施しをする」とか、そういう「スジの通し方」の「そういうもの」感から決して外れない習い性のありよう。

 「情け」「人情」ってのは、そういう「スジの通し方」の「そういうもの」感と共に〈リアル〉だったんだろう、と。自分ごときができる範囲の最大公約数、それによって維持される「公」の領分。それは「大文字」の「政治」的な「公」とはおそらく異なるものだろう、と。

 よく対置されている「義理」ってのは、それに対してもう少し社会的なというか、若干「大文字」に寄せた「公」の水準での「スジの通し方」になってくるんだろう。でもそれも今自分らが考えるような「公」とは違う、自分自身が社会的に≒自分の「世間」で生きてゆく上での広がり、といった意味あいで。
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*1:なんかこのへんなども含めて、読み直し&考え直しながらいろいろと……「 king-biscuit.hatenadiary.jp