「昭和15年はほとんど昭和30年である」

*1

 正しい。とりあえずは正しい、と言っておかねばならない。

 生活史ないしは世相史的な側面から見ると、そして高度経済成長以降の感覚からそのような〈いま・ここ〉の「歴史」を逆さまの一点透視でのぞきこもうとすると、戦前/戦後という区切りはこうならざるを得ない。そしてそれは、かつて鶴見俊輔などのかつての(まだ十分にまともだった頃の)「思想の科学」界隈が提示した「史観」(とは言うてなかったが) でもある。*2

 いまみる昭和史の8年以降は戦時一色である、実際は昭和18年くらいまで文化の爛熟は進行していたのだが、戦争に隠蔽されてあまり紹介されることがない、当時の雑誌を読めば戦争バイアスを取り除いた大衆の社会の実際を理解できるだろう、なにもかも戦時一色に塗り潰したのは戦後人である。


 図書館の昭和史コーナーは戦争の話ばかりである、こっちは大衆社会史が知りたいのであって出版社のイデオロギーを知りたいのではない、同じことは朝鮮や沖縄の近代史でも同じで政治的な本ばかり並んで辟易である、どれもタイトルを読めば内容は充分で、いったい誰が読みたがっているのか不思議である。

 異議はない。このような感覚、このような違和感がずっと以前から、それこそ40年以上も前の右も左もわからない地方出身学生だった頃から確かに宿っていた。その後わけのわからないながらに本を読み散らし、古本含めた活字のドグラマグラに手前勝手にさまよい込むようになってからも、こういう違和感は基本的に変わらないまま自分の身の裡にあり続けていたのだと思う。柳田國男経由で民俗学なんてものにうっかり興味関心抱いたのも、こういう違和感にも何かそれなりの説明がつけられるかも知れない、とどこかで察知していたからでもあるらしい。自分にとっての「学問」沙汰(と呼んでもいいのだとしたら)なんて初手からそんなもの、昨今のような「業績」がどうの「キャリア」がこうのといった世渡り作法と紐つけられてはいなかった、良くも悪くも。

 とは言え、このような「史観」が広く説得力を持つようになってきた経緯、というのもすでに歴史的な過程だったりする。逆に言えば、このような「史観」がどうして、そしてどのように異端であり例外的なものの見方としてしかあり得なかったか、という問いが、それがあたりまえに感じられるようになったこういう状況だからこそ必要、ということでもある。ほらみろ、自分がずっと感じてたあの違和感は「正しかった」んだ、といった方向での思い込みをうっかり発動してしまいかねない、その程度にその違和感が前景化可視化されてきているらしいからこそ、そのような留保はしておかねばならない。

 前から触れているように、それらの前提にあるのは「戦後」の、高度経済成長介した「豊かさ」の内側からそれを自明のものとして育ってきた世代の意識が社会の中で多数派になってきたこと、それは「都市化」「大衆社会化」によって醸成されてきた生活感覚や意識、気分なども含めた意識せざる解釈格子として、歴史や社会、世の中に対する解釈の仕方を規定してきていること、などに裏打ちされて現前化してきた〈リアル〉である。政治や経済の水準、そしてそれらを解釈してゆく時に自明に設定されてきていた〈知〉の枠組み自体もまた、そのような〈リアル〉の変貌に伴いその内実を変えてゆかざるを得なくなっていった。いわゆるマルクス主義的な図式はそれらの枠組みの主要な骨格になってきていたのだが、当然それもまた図式としての効きを減衰させていった。*3

 しかしまあ歴史に遠近法は付き物である、月移り星流れてやがてフラットに是正されていくのであろう、歴史の積み重ねとはイデオロギーの濾過作業に他ならない。

 だからこそ、ようやく全面化前景化したかに見えるそれら「史観」自体の出自来歴、難しく言えば「歴史」性にも踏みとどまって気づこうとしておかねばならないのだろう、と強く思う。

 「豊かさ」任せの「都市化」「大衆社会化」があたりまえの意識にとって、それ以前の社会や歴史の解釈はあらかじめ「異物」としてしか存在しなくなっている。ムラもイエも、それら「現実」を下支えしている仕組みの説明としてかつて確かに〈リアル〉だったかも知れない政治や経済なども、自分自身の生まれ育ってきた中で宿っている〈いま・ここ〉という感覚とはすでに地続きではなくなっている。それこそゲームやアニメ、ファンタジーの類のような創作物と同じ「おはなし」として、それら「少し前までの(と言われている)社会」は、今ある自分とは切断されている。そういう感覚や意識を介したある種の失地回復、地続きの〈リアル〉へのレコンキスタの必然として、それらいまどきの「史観」の主張は確かに身にしみるものになってきているらしい。

 とは言え、それもやはり時代の子、たまたまそのような時代状況や情報環境との関数において〈リアル〉に寄与するようになった「だけのこと」ではあるだろう。戦前の都市部中間層の〈リアル〉、大衆文化やそれに伴う消費文化、それらに宿っていた個々の意匠や「細部」の具体などにことさら意識が合焦、熱っぽく語られるようになってきていること自体が、いまある〈リアル〉のバイアスでもある、という立ち止まり方は、しかしその〈リアル〉という感覚の興奮や心地よさなどによって忘れられがちにもなるものらしい。

 それらいまどきの〈リアル〉に依拠すること自体が悪いのではない。楽しいこと、興味を持ったこと、それまで意識しなかった〈いま・ここ〉との地続きの歴史なり来歴なりを「発見」して素朴に興奮し、愉快に身を任せることはひとまず「正しい」。そう、それは「正しい」のだ。ただ、だからこそ、その〈リアル〉が切実でかけがえのないものと感じているならなおのこと、それを足場に同時に、かつてある時期までそれなりに〈リアル〉の前提になっていたらしい歴史や社会の見方、解釈の枠組みによって立ち上がっていた現実についても、同じように〈いま・ここ〉から合焦しようとしておく必要がある。誰のだめにでもなく、そういう〈リアル〉を抱いてしまっている自分自身のために。

 いまは確かに前景化している都市部中間層的な、モダニズム上等な生活文化の諸相からは疎外されていたある時期までのムラやイエ、かつての政治や経済 (そしてそれ前提で成りたっているとされてもいた文学や芸術なども含めて) に捕捉されていた「もうひとつの〈リアル〉」の存在について、同時に穏当に眼をくばっておこうとすること、その程度の留保もできないようでは、いまあるその〈リアル〉もまた、次の時代の〈リアル〉によって「なかったことにされる」しかないだろう。*4

 

*1:懸案のお題「もうひとつの歴史修正」関連。同時に「歴史認識」の問題でもあるわけだが。

*2:その下地には南博らの「大正文化」の再評価があったりするのだが、そしてそれは政治経済の水準から歴史や社会を解釈しようとする本邦近代の、殊にマルクス主義歴史観社会観の図式的理解とそれを唯々諾々と受容してきた〈知〉のモードに対する素朴な批判の足場になってたりするのだが、そのへん含めてそれはまた別途。

*3:90年代に改めて大衆化した「歴史認識」問題というのもそのような意味で、〈リアル〉の変貌に伴う必然的なあらわれだったわけで、すでに一般名詞化したかにも見えるかの「ネトウヨ」にしても、そのような背景と共に尖鋭化した使い回しがされてきたもの言いなのだと思う。

*4:いまどきの人文社会系界隈の若い衆世代の仕事を見渡す機会もとんと少なくなったけれども、何かの機会でそれらに接することがあると、まるで号令か呪文でもかけられているかのようにそれら戦前の都市部のモダニズム、消費文化、生活史的なお題で取り組んでいるものが多くなっているのに素直にびっくりする。しかも、かつてのマルクス主義的な図式にとってかわったかのように、ジェンダー論やフェミニズム系の図式やグローバリズム的な定型に性急に、あらかじめの結論ありきなマジメなけたたましさで落とし込んでゆくようなものが「評価される」≒「正しい」になっているらしい。お題自体は悪くないし、眼のつけどころ自体も面白いのだけれども、それを本当にゆっくり味わってしゃぶりつくしてゆくだけの下ごしらえから調理の仕方、味つけなども含めた「おいしい食べ方」に気づいていない、あるいはそのように教わっていないのかも知れないが。

現代民話、ひとつ

*1

 むかし友達のドカタの現場監督が中国人を3人臨時で雇っていてな、まだ景気の良かった頃なので旧い中古住宅に住まわせて。そんでその近くに公園があって、そこで彼らは実に巧みに鳩を捕まえては首を落としては近所の木に吊るし血を抜いて食っていたのだが、本筋はそんな話でなくてな。


 そんなワイルドな彼らであったが、ある日困った顔をして相談に来た「カントクーこの家にはオバケが出るよ」って。当時は中国人出稼ぎの質は悪くて当たり前だったもんだから、監督の彼もコイツらは何かゴネ得を狙ってやがるなと、「そんなわけあるかい、大の男が3人も居て情けない」と突っぱねた。


 それでもしつこく3人が3人とも「オバケが出る」「鬼が来る」(と漢字で書いてきたりもしたそうだ)「夜寝ていると女の人と子供がでてきて足首を引っ張る」「酷い時は引きずられて壁に張り付いてしまう」って。もちろん信用はしなかったものの、あまりに懇願が激しいので仕方なく会社の寮に移らせた。


 そんで、そこを引き払わせる時に立ち会った不動産屋に「困っちゃいますよー中国人がオバケだ鬼だってゴネて、いや女の人と子供の幽霊らしいんですがね」って愚痴ったら、不動産屋たちまち困った顔をして、実はあそこガス漏れで母子が死んでる事故物件なんですよ、ってそっと教えてくれたって話。


 まあ、ウソか本当かはともかく過去話なんか知り得ない中国人の見たという幽霊と事故の人数と容姿が一致したというのが興味深い。


 そんでさ、そんな話を聞いちゃ行かずにはおれんわけで監督とわしともう一人の三人で見物に行ったのよ。もちろん怖いから昼間に。わしは泊まってみようせって提案したのだが却下された。


 まあ結論からいうと何も出なかったわけだが、引きずられて張り付いちゃうと言われた壁に妙にリアルな脂っぽい人型のシミが大きいのと小さいの2つ浮き出ていたのが印象深い。(終)

*1:Twitterもまた、正しく「語り」の媒体なのだと思う。こういう秀逸な事例を目の当たりにすると、なおのこと。

「萌え絵」問題・メモ

 いわゆるひとつの「萌え絵」問題、個人的にはその萌え絵自体に反応する感性稀薄な老害化石脳なんだが、かつて「漫画」(と総称ひとくくりにされていた「絵柄」一般)が子どもたちの身の回り品にみるみるうちに増殖していった過程、と基本的に地続きの現象なんだとはおも。例の花森安治激怒の一件などの当時の世間の反応含めて。*1

 「なにもかも漫画だらけ」ならぬ「どこもかしこも萌え絵だらけ」なんだろう、と。で、それはそういう絵を好む子どもなり人がたなりに向けての商業的文脈での意匠なわけだが、かつてはそれを「子ども向け」ということでスルーして/できていた世間の閾値が半世紀でだいぶ変わってきたんだろうな、と。

 むろん花森は半世紀前も「子どもが喜ぶからといって何でもありでいいんかコラ( ಠωಠ)」(大意)と文句つけているんだが、昨今の萌え絵氾濫の世相についてはさて、当時の花森の視点や立ち位置からすればどのように見えるのかな、という個人的な思考実験などやってみたりしている。喜ぶ対象が「子ども」ではすでになくなっとるということがまず最前提として。あと、同じ絵でもうっかり喚起されるキモチやココロの領分がかつてとだいぶ違う様相を呈しとるらしいことも。

 表現規制に対するカウンターの人がたも、自分たちの理解できない表現に対して規制しようというのは異質なものに対する理解力や寛容性が足りない、的なもの言い繰り出してくるのが割と基本線になってるみたいだけれども、そういう「異文化理解」と「価値相対主義」の併せ技のリベラル話法が未だにそんなに効きがあるのかどうかはひとまず措いておくにしても、かつての花森の違和感のありかに対してという点に限っても、それはちょっとズレてるんじゃないかと思う。

 子どもは社会がおとなが見守って育てるべき存在、という前提があって、それと共に「理解すべき」対象でもあるという布陣での理屈展開ならまだしも、表現だけを俎板に上げ対象にしておいてそれに対する「理解」の必要を正義に掲げるのは、その表現を「作った」事情やその立場の思惑その他は考慮されていないわけで、何よりそういう表現は子どもなら子どもが自発的に作ったものでも維持してきたものでもない。萌え絵の場合は子どもに限らずある世代ある嗜好をあたりまえに共有している側が対象と言えば言えるし、彼ら自身が作って維持してきたある種の文化という言い方はまだ可能になるかも知れないが、それでもなお、そういう表現だけが対象化される前提が自明に設定されていることには変わりない。

*1: もうずいぶん前からこだわっていて、ことある毎に引用&言及している花森安治の文章。たとえばこんな具合。「大人でも、持ち物や、着るものや、便う道具によって、その人間が変わってくる。まして、これから育ってゆこうというこどもには、それが非常にひびいてくる。(…)おばけのQ太郎のついたノートに鉄人28号のついた鉛筆で書き、スーパージェッターのついた消しゴムで、おそ松くんのスケッチブックに鉄腕アトムのクレヨンで書く、そんな日々をつみかさねてどんな感覚がみがかれ、どんな勉強ができるというのだろう。」 花森安治「なにもかも漫画だらけ」(1966年)d.hatena.ne.jp 

定説を「覆す」キモチよさ、のこと

 *1 
 人文社会系の「真実」というのはその時代、その社会における情報環境との相関で輪郭定まってくるところが善し悪し別にしてあるんだとしたら、「定説」(とされてきたもの)がみるみるうちに「覆されてゆく」(ように見える)のもある意味時期的なもので「必然」に見えたりもするわけで。

 で、それは、ことの是非やどれくらい「必然」なのか、といった論理的な事情とは別に、単にその「覆されてゆく」こと自体の快楽に足とられてのこと、って真実も割とあるあるだったりする。

 違う言い方。「速度」が「効率性」「合理性」「生産性」の別のあらわれだったり、もっと言えばそもそも後者が「速度」の下僕だったりする。

 昨今どんどん自明化してきとるようないまどきっぽい(と感じる)情報環境ってのも、そういう「速度」を裏打ちにして版図を拡張してきたこと、うっかり忘れちまうほど何かキモチよくなっちまっとったりしないだろうか。

 このへん、本邦日本語環境の〈知〉の言語空間における「進歩」が果たしてどのようなイメージで昨今とらえられとるのか、といったあたりとも関わってくるような。社会なり現実なりが「進歩」している、そのように言っていいらしい程度に「良い方向」へ変わってゆきつつある、という認識なり漠然とした感覚なりがどのように「あたりまえ」になっているのかいないのか。そしてそれはそれら〈知〉の言語空間における学術研究が同じように「良い方向」へ向かいつつある、という認識と無関係でもないはずで。

 ならば「退歩」なのか、「悪い方向」へ向かっているのか、という対抗的なもの言いもまた別の束縛の裡にあるわけで、「良い/悪い」「進む/退く」といった図式自体をひとまず棚に上げてみたところで、ただそのように「変わってゆきつつある」という認識、まさに「変遷」の過程のとりとめない現在をじっと眺めようとすることから試してみないことには、このあたりの自明化しとる現実認識のありようはその姿をまともにあらわしてくれないものらしい。

 「定説」という自明、はそれを「覆す」「否定する」こと自体がある種の快楽、素朴な興奮やキモチよさを容易に手軽にうっかりと喚起してくれるものであるらしいがゆえに、その手続き手癖習い性には常に敏感になっておきたいと思う。

*1:このへん、例の「つくられた●●」話法や「~の近代」文法の本邦人文社会系ルーティンの澱み具合などともナチュラルに関わってくる、はず。

くら寿司「炎上」事案から考える、いまどきの対「社会」意識


くら寿司バイト炎上。

 くら寿司(だけでもなくその他含めて)で昨今またぞろ続出してきたらしい、バカッターの件。*1

 「いたずら」なのにそれをそのままwebにあげてしまうあたりの対社会/世間or内輪感覚のいまどきがそもそもの問題なんだろう、と。自分のやんちゃなりバカなりをひけらかしたいのは若気の至りでわかるとしても、それを果たしてどっちに向いて誇示したいのか、という意識がそもそもそうなっちまっとるから、本来そんなものを見せる対象でもない雇い主までも容易にしゃしゃり出て対社会/世間向けな対処をしなければならんというワヤにもなるわけで。

 そもそもがバイト仲間の内輪で(゚∀゚)アヒャる「いたずら」だし、だから仮に「バレた」としてもそれはその店のバックヤードの範囲で粛々と対処すべきことで、だったらその場の店長なり何なり責任ある立場の者がシメてそれで終わりのはずが、どういうわけかいきなりwebを介して「社会」の間尺の事案になる/させられてしまうことの不自由。バイトばかりで店長なり何なり責任ある立場の管理者がいない。そんな状態で日々の仕事を回されているあたり、そんな職場にまず「現場」の枠組みなどあるわけがないし、その分いきなり「会社」に直結されている感。客もその店の客以外の世間一般、潜在的に客になり得る「消費者」一般までいきなり短絡直結して、それらがそのまま観客化するわけだから容易に「炎上」ということにもなるわけで。

 つまり、「現場」という枠組みがもう初手から煮崩れとるわけで、そういう意味ではいまやバイト仲間の内輪で(゚∀゚)アヒャるのにも、スマホとweb環境とが必要になっているらしい現状。予備軍含めたそれらバカッター連がSNSというツールの特性を理解していない、その程度のメディアリテラシーしか持ち合わせていないからそういうことになる、というのはひとまずその通りではあり、だから彼らをバカだDQNだヤンキーだと嘲り嗤うのもそれまたとりあえずの道理かも知れないが、だが、そんな彼らがいまどき本邦若い衆その他おおぜい的に見てとりわけのバカとも思えないのだ、実感として。特に昨今のこのスマホ&web環境常態化における意識のありようとして。

 スマホとwebの組み合わせの日常の中に「内輪」があると自明に感じるようになっているんだろうし、「ウケたい」心性もそういう「内輪」(≒実は「社会」に直結短絡した「観客」)に向かって全開放になっとる感。YouTuberその他のいまどきヒーローの自意識制御がけつまづいた事案もそろそろ出始めるような気がする。

 スマホとwebへの常時接続環境の普及は、それらの環境に身を置ける条件を手にした者全て老若男女門地出身出自来歴その他一切不問でwebを介した「情報」とそれらの形成する〈リアル〉の前に一律「消費者」となる/なれてしまう、そんないまどきの情報資本主義体制下の最終形態への一環としての、まさに「情報」の下の「平等」の実現。*2そりゃあそれらを使い回す機会は確かに「均等/平等」に開かれてはいるけれども、同時にそれらに対して「消費者」的受け身にしかなれないように日々横並びに馴らされもするわけで、結果的にある決まった方向、ないしは文脈でしかそれら「情報」を受け取らないし事実受け取れないようになるのが大方の流れ。そんな「消費者」的受け身に馴らされ、日々の生身の生活感覚から主体(性)が後退すれば、どれだけ多量で多様な「情報」にアクセスできる機会が開かれていても、それらを介して立ち上がる現実は一定のあらかじめ決められたかのようなものにしかなら/れないらしく。

 何度か触れてきた、大事なハナシは対面でなくLINEでする、といういまどき若い衆世代の感覚も、「内輪」の構築が生身等身大ベースである程度できるより先にスマホとweb介した環境に先廻りしてできあがっちまう情報環境ゆえの適応態なのかも知れん分「社会」と「個」の関係の静かな煮崩れ変貌期として。何でもかんでもいきなりうっかり「社会」に直結短絡されちまう環境。そこには関係や場からの紐付けなど全部すっ飛ばしたフリーダムな「観客」が常に待ち構えていて好き放題評判する。「現場」の仕切りや敷居がなくなった(という前提の)環境ばかりが前景化される日常。トーキョーエリジウム的環境の前提。*3

 だから、それら「観客」にタイムラグなしに対面するのと同じく、雇い主もまたいきなり企業レベルに直結短絡しちまうわけで。だからその「コンプライアンス」とやらもいきなり「社会」に、それも「観客」てんこ盛りなイメージのそれに対する話法&身振り制御に限定されちまうわけで。いずれ本来の「現場」は初手からお呼びじゃないまま事態はそんなエリジウム内で淡々と粛々となめらかに「処理」されてゆく。

 マスコミとかメディアとか称するからくりも、すでにかつての「報道」とは違うそういうエリジウム内の「処理」の過程を映し出す装置にしかなっていない感。「現場」(≒現実の〈リアル〉)とほぼ紐付かない「情報」の「処理」機関として。あるいは、いわゆるコンサル話法&身振りあたりもそのへんと地続き感なわけだし、おそらくあの「ポエム」系ことばやもの言いが猖獗を極めるようになったのも同じハコの過程かと。「情報」化した瞬間にそれらエリジウム的空間&環境に同期して淡々と「処理」の過程(≒お約束の定型プロトコル)に流し込まれてゆくばかり。

 と同時にまた、そんなのいまさらわざわざ論うことないよ、こうこうこうでいまどきの時代の流れなんだから、的な達観でことを収めてしまおうとする態度も珍しくもないけれども、しかしそれは本当に事態をつぶさに把握認識した上で、よりよい対処を見つけてゆこうとする上で好ましいものなのだろうか、という杓子定規な問いも、また。

 自分が足つけ紐付いとる現実、半径身の丈のそれをまず見定めて輪郭確かめておくこと、を自前で少しずつしてゆくより先に、スマホとwebな情報環境で「社会」や「世界」を脳みそ意識の銀幕に絢爛豪華に多様に24時間態勢でプロジェクションマッピングされちまうようなもんだわなあ。


*4

*1:「バカッター」というのもTwitterに対して失礼とか何とかの斜め上な能書きもスピンアウトw的に、でもう何が何やら……rocketnews24.com]

*2:そしてこのような本質的なコメントがうっかり飛び込んでくるのもTwitter空間なわけで……

*3:自分的に便利だから使うようになっとるし、内実についても使いながら整えてゆくしかないと思うとる「エリジウム」の比喩。その元ネタ「エリジウム」の予告篇はこちら。
エリジウム (字幕版)

*4:継続的にゆるゆると考えて続けているお題というかモティーフがらみなので、とりま関連しそうな過去のものなどもついでにこのへんかな、と。king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com king-biscuit.hatenadiary.com

「うた」と「からだ」――北と南、東と西、「上京」「望郷」の描かれ方・メモ

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 椎名林檎が歌い直してみせたことで、性的存在としての「ぼく」の不在とその後とが裏返しにくっきり浮かび上がってしまって、太田裕美(1975年)と椎名林檎(2002年)のあいだの本邦精神史的な意味での違いや落差までもが否が応でもくっきりと、な件。

 長渕は「北へ北へ」で「花の都大東京」へ行っとるんだがな。
 これは1977年。「北帰行」以来のイメージがまだ活きていた頃。


石川さゆり / 津軽海峡・冬景色(1977.OA)

  「北帰行」は確か宇田某という御仁が旅順の高校を放校だか退学だかになって内地に帰る時にこさえた自作の歌、といういわれのあるものだったかと。*2

 その頃私はテレビキャラクターを追いかける仕事をしていたことは、このシリーズで何回も書かせていただいたが、TBSの親睦会にはいつも番組編成部の岡崎潔氏を中心に小旅行をしていた。時折岡崎氏の上司の宇田博氏が同行することがあったが、何回目かの旅行の折、宇田さんは同行の一同を見渡して、「皆さんは相も変わらず同じ仕事をしているんですなァ。私は随分出世しましたよ」と言って皆を笑わせた。宇田さんは、そうした軽口も、不思議に嫌味ととれない人柄だったし、事実宇田さんは、局内でも当時編成局長という要職にあったし、それなりの貫禄とオーラを備えていた。そして、この宇田博さんこそが、「北帰行」の作者その人なのである。旅順高校を放校になり、孤り親の家のある奉天へ帰った若き日の挫折を歌ったこの歌は、長いこと「作者不詳」となっていた。のちに、宇田博作詞・作曲ということが判明して、ボニージャックスや小林旭の歌声で広く世に知られたが、宴会で酔った宇田さんは照れながら私の耳許で…「あれは若い頃の歌でネ、(ボッキ行)と言うのが正しい」と、いたずらっぽい笑顔でささやいた。私の昭和史(第3部)―昭和から平成へ― 夢見る頃を過ぎても | 根本圭助 | 松戸よみうり新聞

 戦後、TBSの編成局長にまで「出世」されとらすということは、テレビ黎明期に現場に入ってきた最後の戦前教育世代という感じで、なぜか戦後のうたごえ運動介して広まり、後に小林旭以下がレコード化という流れで知られるようになったという経緯も含めて、高度成長期のわれら同胞のココロのありように受容された「うた」ということになる。

 出張帰りに羽田空港で斃れて亡くなった親父のカラオケのカセットテープがなぜか手もとに残っているのだが、それがこの「北帰行」。大阪でセメントその他の営業やってた頃だったはずだから1970年代後半くらいだろう。いずれ接待か何かで行ったバーかクラブあたりで記念に録ってもらったものみたいなのだが、昭和3年生まれのひとケタ世代で音楽と英語はからきしダメ、いわゆる趣味や道楽の類もほぼ縁のなかった親父がたどたどしく歌う声だけが「音」として残されているのだが、そんな彼のかろうじて歌える「うた」として当時、こんなのが選ばれていたことを思い出した。

 「北」志向は当時、こんなのも生んでいた。1975年、あの『寺内貫太郎一家』の挿入歌としてそれなりに流行った記憶がある。テラカンは制作がTBSだったから、先の宇田博のサジェストなり何なりあった可能性はある。
徳久広司 北へ帰ろう

 とは言え、こういう戦前的というか、当時の感覚としてすでに「古い」ものになっていたココロやキモチの表出、センチメントの表象は、一周回ってポップで「ちょっといいもの」になっていた時期。それこそ「女のみち」(1972年)がそれまでの流行歌、いわゆる「演歌」と称されるようになっていた定型のどこかパロディ的に受け取られて、当時浸透し始めていた有線放送のネットワークを介して大ヒットしていたことや、梶原一騎の「スポ根」ものもそういう脈絡で受け入れられていたのと同じように、こういう「北」の表現もまた、「古い」がゆえに何か新たに喚起するものを当時の〈いま・ここ〉感覚に与えていたようではある。
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 明らかにパロディ的距離感が介在している横尾忠則による表紙。しかもモノクロでもある。オークションなどでは時に10万くらいの値がつけられてたりするようでもあり。1970年5月。


女のみち ♪ ぴんから兄弟

 さらに、これも1979年。「東京」も「上京」も歌詞としては具体的に出てこないけれども(シングルバージョンでは)、でも「上京」前提に自明に聴かれていたとおも。

大阪で生まれた女 フルバージョン

 「木綿のハンカチーフ」問題に戻れば、どうしてあの「上京」のイメージが「北」からのもの、と思い込んでいたのか。おそらく「草原」というバタ臭いw語句で「故郷」がほのめかされて≒抽象化されているあたりが悪さしとったんかな、と振り返ってみれば。確かに、「九州」なり「西」に「草原」のイメージはなじまなかった。そういう「草原」「高原」のバタ臭さ≒モダニズムorアメリカニズム、の表われとしてはこのへんからくっきりと、か。


高原列車は行く(岡本敦郎)

とんがり帽子 (鐘の鳴る丘) ♪川田正子

 そして、「木綿のハンカチーフ」と「卒業写真」が共に同じ1975年のリリースという事実。


太田裕美 木綿のハンカチーフ

卒業写真 (Yuming Original)

 イナカに置いてかれるオンナ、と、マチで変わってゆくオンナ、のそれぞれ。で、この後者にしても、集団就職だの何だのでマチに働きに出てきたわけでもなさげなあたりが重要なわけで。働きにマチに出るオンナならば、それこそ太田裕美自身も「木綿のハンカチーフ」のアンサーソングと確か自分でも言っていた「赤いハイヒール」(1976年)で歌ってみせていたわけで。


赤いハイヒール (1976.06.01) - 太田裕美 Hiromi Ōta

 だからこそ、荒井由実の「衝撃」というのは、それがどれだけ当時の世間一般その他おおぜい的感覚にとってまだ「異物」であったか、に裏打ちされていたんだが、な。

*1:NHK-FMの例によっての「○○三昧」で松本隆特集をやっていて、その流れでTwitterのTLがにわかに盛り上がって、という中でのこれは極私的な備忘録として。 twitter.com

*2:このへんに事情が記されていたはず。

落陽の市街図―青春への北帰行

落陽の市街図―青春への北帰行

大連・旅順はいま

大連・旅順はいま

レファレンスと保存・メモ

*1


 米国相手に戦争して、主要都市全部まる焼け。植民地も全部放棄後の日本で、米軍がちとオモシロなことを日本に指示したんよ「あんたらの国にもライブリを作りんしゃい国会に付属のライブリがあれば、国策を間違ふこともなからう」と。

 ん?(・ω・。) ライブリ? あゝ図書館のことかぁ」とて、昭和22年に「国会図書館法」てふもんをつくったんぢゃが、「ほんとにこんなんでいいのかなぁ??? 図書館たって、図書の【保存】をするとこでせぅ。なんで図書館で国策が間違はないのか、わからなーい」ってなことになったんで、困ったときの外圧だのみ、米国から使節を呼ぶべぇ、とて、二人の立派な図書館人を呼んで、国策を誤たないためのライブリとかやいふもんの仕事内容を決めてもらふたのぢゃった。ところがその覚書に日本人によくわからないことがいくつか書かれてゐた。

 その筆頭が「レファレンス」なる言葉。数百人規模のライブリで、筆頭局2つもあてがって、国民向けレファレンス奉仕と議員向けレファレンス奉仕をやれ、と覚書に書いてある。当時、議員先生たちが国会で、この言葉、わからんなぁ。日本語に訳せない~といふことで、「考査」なんちゅう、ヘンテコ誤訳をしたんぢゃったが、要するにこれは本の使い方(読み方)の一種で。必要から発する随時読み、ちょっと読みのこと。日本語にもちゃんと言葉はあって「参照すること」で、必要に応じた参照読み(レファレンス)をするには、いまでいふサーチ・エンジンが必要。

 本を、必要から発したちょっと読み(レファレンス)で使ふために、当時の紙技術のサーチ・エンジンは、紙カードや紙ファイルと、議員向け100人、国民向け100人のヒューマンから構成されてゐたのぢゃった。本を使ふための数百人規模の部局を持つ図書館なんて、それまでの日本にはなかったんよ。

 オモシロいのは、昭和22年につくった国会図書館法には、「保存」の言葉があるのに、昭和23年につくられた「国立」国会図書館法には、なんと、「保存」の言葉がないのよ。つまり米人覚書の発想だと、国策のライブリは、まづはレファレンスをするとこであって、保存をするところぢゃあ、なかったんだわ

 でも、やっぱり、基本的コンセプトが、結局は日本人にはわからなかったんだなぁ。

「本の集積は、通読でなく、必要に応じたちょっと読み(レファレンス)で、国策(社会的ニーズ)に役立つこと。」

「本の集積は、使ってナンボで、保存は二の次。」

これがわからなかった。

 2009年に国会のライブリで、結局、国民レファレンス局(固有名としては「主題情報部」といった)が廃止になったんは、結局、日本人が、参照読みの重要性を理解できなかったことを象徴してゐるんよ。ネットに例へると「検索エンジンは不要。URLの直打ちでホムペを読めばいいよ」と言ってるやうなもん。

「議員レファレンス局は残ってるぢゃんか」ってか(゜~゜)
でもあそこ、レファレンスといふコンセプトはひたすら希薄なんだよね。一つにはやってる人たちが、自分たちの部局名の成り立ちをぜんぜん知らない。意識してない。リサーチ&レジスレイチブレファレンス局ってな名前なんだが、リサーチが曲者(σ・∀・) ってか誤解を生んでるんだよなぁ。

 実は結局やってんのは文献リサーチ。現実から直接、統計をとったり、聞き取りをしたりは全然してないに等しいんだ。あくまで文献調査なんだよね。文献調査とちょっと読み局。

 文献(ネット情報でもよい)の生成過程とか、ちょっと読みのカラクリつくりとか、文献提供時の工夫に意を用ゐるのが本来の仕事なんだらうけれど、どうも(目的語なしの)リサーチなる言葉にミスリードされて、自分がライブラリアンでなく何かの専門家だと自尊しはじめちゃふと命取りなんだよなぁ……

 いっぽうで国民レファレンス局が廃止(2009)されると、国民向け奉仕は、稀本的に本を使わせない方向になる。もちろん奉仕者の自意識としては「保存を優先しています(`・ω・´)キリッ」ってなことになるけどね┐( ̄ヘ ̄)┌ でも最初に書いたでせう、昭和22年法にあった「保存」が23年法には無い。その意味が、結局、中の人たちにもわからんかったんだねぇ……

 昭和22年、二人の米人がやってきて、国策ライブリは、ああせい、こうせいとメモランダ(当時、米人のメモランダは日本人にとっちゃあ至上命令)を遺してくれたんで、70年やってみて、結局、ライブリの基本コンセプトは受容できなかったんだ。

 「図書館」なる言葉も「どうやら文明国では町にライブラリとかビブリオテークなる機関があって、それは日本の「文庫」ふみくら、とは違うものらすぃー」といふことで作られた新語「書籍館」が明治20年代に置き換わったもの。文庫(ふみの蔵、倉庫)とちがふもの、とて、図書館なる新語ができたのに、結局、文の蔵としての運用しか大日本帝国ではできなかったんだわさ(´・ω・)ノ。んで、夜郎自大で国が破綻。

 米人はなにかお人好しのところがあるのか、70年まへ「あんたらの国を民主化するんなら、国策ライブラリを議会に新設したら、やり方はこれこれ」と教へてくれた、といふ次第。やり方のコアが「レファレンス」てふサービスぢゃったが、これが結局、中の人にもよーわからんかったといふ次第。

*1:web環境を介した耳学問というか、無名名無しの遺賢がたの知識や達見の類に出会うことができる悦び、というのは、それこそかつての2ちゃんねる以来の本邦インターネット環境の特質だとおも。まして自分のような僻地辺境蟠踞の外道にすればなおのこと、Twitterを「学会」「研究会」の類として日々、活用させていただいているありがたさ。