私小説として読むこと、が「作家」の書いたものについてはもとより、他でもないその作家自身についてもそうだったかも知れないことについて。*1
世の中に対する見方や考え方、起こったできごとや事件、あるいは日々身の回りの「あるある」事案などについて、これをどう感じるのか、どう見たらいいのか、といった角度から、書かれたものを読む習い性というのがいつの頃からか普通になっていて、それは「小説」であれ「随筆」であれ、「コラム」「エッセイ」などから新聞や雑誌の記事などのいわゆる「報道」ものについても基本、変わらない「読み手」の習い性が横たわっていたのではないか、というひとつの仮説。
いわゆる私小説論というのは、書かれた「作品」をめぐるあれこれをめぐって推移してきていて、それは当然そうなんだろうけれども、同時に「読み手」の側がどのようにその書かれたものを「私小説」と意識、ないしは自覚した上で読んでいたのか、といったあたりの考慮は、未だに薄いんでないだろうか。ぶっちゃけ「読み手」のその「読む」ことの習い性がもうすでにある段階から「私小説的な読み方」一択になっていた可能性、殊に「作品」としての私小説のあり方が固まってゆく過程ですら、もしかしたらそのような「私小説的な読み方」の習い性の広がりの方が先行して、書かれた「作品」のあり方を規定していった面もあったのではないか、とかいろいろと例によってとりとめなく。
こういう場合、「書き手」もまた「読み手」である、ということは当然、含まれているわけで、書き手の側にもそのような「私小説的な読み方」が書かれたものに対して習い性的に実装されていったことで、そのような自分自身の「読み」を足場にしながら「書く」へも向かっていった経路はおそらくあるだろう、と。どんな「読み手」を想定して「書く」に向かっていったのか、という時に、すでに自分の裡に「私小説的な読み方」を自明にやってしまう、そのような習い性を身につけた読み手がひそんでいた、と。そしてそれはその書き手だけのことでもなく、ある程度同時代の情報環境の内側に広汎に宿り始めていた「読み」のひとつのモードというか、「民俗」的なレベルも含めた意味での習い性として宿り始めていたのではないか。
あらゆる「書かれたもの」は「私小説」である――こういうと端折りすぎ、かつ言い過ぎだとするならば、あらゆる「書かれたもの」は「私小説的な読み方」にさらされることを前提に生産されていったものである、でもいいかも知れない。
散文とそれ以外、詩や短歌などの場合はどうか、などさらに補助線は必要だと思うが、同時代の情報環境に良くも悪くもそのような「私小説的な読み方」があたりまえな「書かれたものに対する読み方」として宿り、広汎に実装されていった過程、というのは、単に文学史や文芸批評その他タテ割りタコツボ化が極相化しているかに思える「専門性」の不自由自体から自ら解き放たれようとする意志が伴わないことには、おそらくうまく合焦すらできないものかも知れない。
*1:例によってしちめんどくさい言い方しかでけんけれども、多謝多謝