「民」と「公」、そして「世間」

 「民営化」「構造改革」って煽られた時に世間の大方は、自分らはその「民」の側のはずなのに、その結果「公」を自分らで支えて回さにゃならんことになる事態を具体的に自分ごととして考えんフィルターがかかってたような気がする。政策を判断する足場は評論家目線の人ごとだったというか。

 そのくせ、自分も含まれている「民」(漠然とはしていても)はとりま無条件の善玉であるという認識はあったらしくて、そういう意味じゃ「(戦後)民主主義」ネイティヴの気分の極相だったかも。その後のミンス政権うっかり誕生させちまった気分までそれはたっぷり尾を曳いていたかと。

 その「民」ってのは、それまでの「民俗」レベルも含めた「世間」と渾然一体な部分も当然あったはずで、でも平成このかた失われた30年の経緯は、かのミンス政権下と3.11をトリガーにそのような「民」(≒「世間」)に対する信頼や安心の類も世間一般その他おおぜいのココロから根本的に奪い去ったわけで。

 昨今露わになってきとる「ニッポンあかん」も「ニッポンすごい」も、前提になっとるのはそういう自分も属しているはずの「民」(≒「世間」)像が、ようやくこれまでの「戦後」(≒「後期昭和」)ルーティンのままじゃどもならんことをみんな骨身に沁み始めたことのひとつの現われ、なところはあるとおも。

 あともうひとつ、その無条件に「民」の側により良い何ものかがある、という世間一般その他おおぜいの信心は、同時にそれが「都市/マチ」の暮しを自明に前提として肯定しとる気分にも下支えされとったわけで、それにはイオンやコンビニなど生活インフラのコモディティ化(≒「郊外」化w)の後押しが。