おもちゃとおもちゃ屋の民俗史・メモ

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 「おもちゃ屋」(商品としての玩具商)という商売は戦後、おそらく昭和20年代末あたりから都市部で「儲かる商売」として増えていった経緯があるのではないか、と以前から推測。「おかし屋」(駄菓子屋でない)などと共に子ども相手の商売として。玩菓組合の結成その他なども含めて要検討。

 戦後直ぐに日本製玩具は紙製やセルロイド製を中心に輸出品として海外から需要あったらしいですね。自分が資料というか、書き物として、そこに関心持ったのは「毛の商人」として名を馳せた高須元甚氏のインタビューや自伝小説ですね........佐藤ビニール工業→タカラ、富山玩具製作所→トミーだったらしく。本人が書いた小説「散骨」、本橋信宏氏のインタビュー集の「悪人志願」にこの辺りの話があった記憶。大学をドロップアウトして、玩具屋に行き着いた人たちがヒット商品を産み出したあたりとか、任天堂花札、トランプからファミコンに辿り着くあたりの話やロッテが出したビックリマンチョコも逸話ありと。早大からロッテ入社、後に「反後博士」と呼ばれたビックリマン生みの親、反後四郎氏とか。

 そのテの「ヒット商品」というのは、それまでに正面から意識されなかった「子ども」の「市場」に正面から向き合っていった稼業の過程で宿っていった感覚や意識を前提に生み出されていったわけで。「市場」の内実がそれまでとは別もののはじけ方みたいなものをはらんでいたのだろう、と。

 結局、戦後の「子供」向けのマーケットがカネになるということ、雑誌やテレビに広告を打って、一気に広く薄く全国津々浦々に流通させることが可能になるのと同時に家内制手工業から、一気呵成に産業化していった様にも思えます。朝鮮動乱前後からの景気、輸出で得た利益も設備に投資されたのかも、とも。

 「子ども」の、あるいは「遊び」「娯楽」≒あってもなくても構わないような領分、の、いずれ「子どもだまし」と呼ばれていたようなブツと界隈の、でもすでにうっかりと「市場」。

 「チャモ屋」から「玩具メーカー」、露店で売られているものから、専門店、百貨店で扱われる様になっていく過程ですね。ロッテの歴史とか相当面白いはず。創業者が戦後ガムの製造に乗り出して、国内の 大手の菓子メーカーにして、かなり早い時期から日本で得た資金を韓国に投資して、今や財閥のひとつとなり、事業を多角化してきた訳ですから。新大久保の工場も今は無くなりましたが、その辺りの歴史も含めて。

 遊園地などに一気に増えていった菓子メーカーの銘板つきのベンチや広告看板なども。それら「おかし屋」もそれまでの駄菓子屋ではない、企業による工場生産の商品としての菓子類を専門に扱うような業態。もちろんそれら企業側の販売網の構築などとからんでくるんだろうが、それまでの子ども相手の小商い的商売のありようが産業化≒市場化させられてゆく過程として後の外食「産業」化などとも。

 たとえばマンガという商品(≒おもちゃ)のありようなどもこのへんの補助線や文脈いくつもからめながら考んと取り落とすところが多いはずで、例の懸案のひとつ、「ぬいぐるみ」がある時期から急激に子どもの身のまわりに増えていった経緯などともからむはずの事案。おもちゃを「買う」こと、買って子どもに与えること、というのが親や大人のあいだでどのように当たり前になっていったのか。

 海王社、当時もう一人現場監督の編集者がいたんですが、社長も編集長もいなくなり、この人はぶんか社に籍が移り、その段階で海王社って実質人がいなくなったはず。最後のこの人は私から3万円借りて行方不明になりました。あの金は返さなくてもいいけど、生きててほしい。


 海王社の社長の下にいた編集長という人は最初はあまり話した事がなかったけど、ある明け方4時に電話をかけてきて、リリーフランキーのコラムの最終回が落ちそうなので7時までにリリーフランキーになって代わりに書き上げてくれ、という依頼をしてきた。イラストはその編集長が描いた。バレなかった。


 海王社がなくなる?みたいな話が出回ってる。つきあいがあったときは、社長含め3人の現場であった。社長は、この人がいるとなぜか印刷代がメチャ安くなる、という特殊能力の持ち主で印刷会社とキャバクラに行くのが主な仕事という人で幾つも出版社を渡り歩いてた。のちアスキーに移ってその後消えた。

*1:TLを介してのフォロワーさんたちとの「おしゃべり」ないしは「雑談」の中に、鈍く抱えていたさまざまなお題たちが相互につながってゆく機会というのが持てたりするのも、いまどき情報環境におけるSNSのある意味ありがたさ。