旧車趣味の闇

 転売ヤーが話題だが、旧車業界ではそれはもう長い間その手の輩が跋扈しており、そのことが日本の旧車文化に与えたダメージは計り知れないと思う。始めたばかりの若い衆が、ベテランオヤジのマウントに耐えながら、這いつくばって部品を恵んでもらうような場面を目にすることもあり、気の毒であった。


 会合に出掛けては他人の車のアレが欠けてるコレが間違ってると腐し、自分の家にあるからと誘い込んで相手がへとへとになるまで自分の車の自慢を長々と開陳し褒め称えさせ、最後にもったいぶって不要な部品と抱き合わせた上、高額に部品を売る。だから若い衆はいやになってやめてしまうんである。


 同じ車のクラブ組織になると、マウント合戦が熾烈になる。部品を持ったものがそれを武器に子分を抱え込んで、限られた部品を巡って取ったの取られたのとやった挙句に分裂する。かつて方々にあった旧車のクラブ組織が減ったのもそうした影響があって、今のゆるいミーティング形式になったのだと思う。


 ただ、そういうマウントおじさんと良く話してみると、相応の理由があることもある。農家の次男坊で立場が弱いとか、家族親戚に疎まれてるとか、親類縁者なく独り身とか。何か人より秀でたものを持って、自分を大きく見せたいのだと思う。これは自分も身に覚えがあるので、自戒を込めて書く。

 あと同じクルマが同じ店でぐるぐる回るね 安く買い取って高く売る→また安く買い取ってそのまま高く売る→ろくに整備してないので維持できず→安く買い取って→売る、、、繰り返し

 お世話になる店、本当に大事ですよね。
 自分はほとんど車両触れないので特に大事なんですが、歩いて一分くらいのところにあるので、最悪エンジンがかからなくても呼びに行くか転がしていける安心感があり、何とか旧車生活続いてます。CANTAさんの信頼できるお店はやっぱりトリミですかね。

昔、ロードスターの部品を定価+手間賃程度で融通した次の日にヤフオクに高額出品されていた事を思い出しました😭

元日産部品の中野将軍そのものですね。
ひどい目に遭って縁を切りました。
まだ、被害者が発生しているようです。

 車検制度が厳格な本邦の場合、こういう「旧車」をメンテして乗ることは「趣味」の領域にとどまらざるを得ないだろうから、必然的にこういうごく限られた内輪とそれに裏打ちされた市場の蠱毒化みたいなことが起こってくるような気はする。配信番組などで見かける海外のそういう「旧車」いじりは、なんというか、もっと一般的な広がりのあるものらしい分、部品の調達も割と開かれた市場がまずあって、いまどきだとネットを介しての取引きなども当たり前になっているような。

 そう言えば、自分が縁あってもう10年以上つきあわせてもらっている整備工場の若い衆ら、そういう「旧車」趣味みたいなんだが、ただ彼らはプロの整備士だし、それ以上にどうも話を聞いていると、ある種の「投資」的な目的コミでやっている。そのへん、その工場の親方(おそらく自分と同じくらいの年配の御仁)などは、「今のあんちゃんらはそっち(投資&売買)が主な目的になっちまってるから、いくら手かけて整備しても自分では全く乗らなかったするんだわ、あのへんわしらと違うね」と苦笑いしていた。もちろん、親方の時代もそういう売買はやっていたわけだし、ある意味投資的な意味あいも含まれていたんだけれども、でも、基本はみんなキチガイ級のクルマ好きだから、自分で乗って、それでまたあれこれ手入れて、みたいなサイクルが基本で、その上で売買も投資もあり得た、みたいな遠近感があったということらしく。

 このへん、競馬まわりのいまどきコンサイナーやピンフッカー気質などと、かつての競馬師うまやもん馬喰系のそれとの違い、などともゆるく通底する話のように思った。

 あ、あと、「農家の次男坊で立場が弱いとか、家族親戚に疎まれてるとか、親類縁者なく独り身とか」というあたりの属性についても。ある程度のカネとヒマがないと宿らない「趣味」「道楽」の領域として。

「教養」と「模倣」の間・メモ

 1970年代から50年かけて、マンガやアニメ、ゲームの受容層が高齢化した結果、それらのコンテンツが教養化して、マンガも読まないアニメも見ないゲームでも遊ばない人達は教養人の条件を満たさなくなったんですよ。オリンピックの演出が薄っぺらいという発言は、この層から出ていて馬鹿にされている。


 小谷野敦が喝破したように、教養は「丸暗記すれば誰でも使える知識」なので、パラダイムシフトが起きて使えなくなると、物凄い無力感が襲ってくるんですよね。だから、これまでマンガも読まずアニメも見ず、ゲームでも遊ばずに生きてきた人たちにとって、それらの情報そのものが不愉快なはずですよ。

 ちょうど、先週連載が終わった「双亡亭壊すべし」の最終幕で、二人の主人公がそれに等しいテーマで死闘を繰り広げるんですよ(笑)。善人の主人公はローアート、悪の主人公はハイアートの「絵描き」だったので、ハイアート側が「理解できん」「クズ絵だ」とけなしながら二人で絵を描き合うというww

 「教養」と呼ばれてるもの。アートはその一部で、最古に近いそれはリベラル・アーツ。しかし、思えばリベラル・アーツ発祥の時代にしてからが、それに含まれる数学をそのまま全部生活に使っていたわけではなかった。………ムダ知識としての教養の意味の一つが「脳を揺らす」事だったんじゃないかw


 ローアートとハイアートの間に、本質的な区別はない。ぶっちゃけ北斎なんか明らかに当時はローアートだった(そもそも彼の絵は版画で量産されている)。理解するのにそれ以上の教養は必要なく、ひと目見て「脳を揺らす」だけの迫力があるのが良いところとも言える画狂老人Zの作品群www


……ところが、彼の絵は時代を経て「教養」になった。果ては猫化までしているwww。


 しかし、その本質は猫化してすら変わりはしない。北斎は見た目の迫力が全てなのだ。何も知らぬ猫好きの子供さえも、彼の作品から生まれた猫絵を見れば「脳が揺れる」だけの力を持ってるのが、北斎ism

 ……さて、北斎が「芸術」もしくは「教養」で、ますむらひろしの猫化北斎が「薄っぺらな模倣」と嘲笑う人々が居たとしたら。……それこそ、お笑いというものであろうwww。この2つは同時代の最大多数にとって親しみがあり、分かりやすいものとして「脳を揺らす」悪戯を込めて描かれた「同じもの」だ。画狂老人Zが、自分の絵を猫絵にした絵描きを見つけたら……まあ、こうなったんじゃないかな。


 うすっぺら?「あと一筆」への執念が積み重なったもんだぜw 数万年分。自分の脳を揺らすものを「心地よい」と素直に認める度量くらい、ぼつぼつ持って良いんじゃないか。

五輪開会式と反ユダヤをめぐる政治・メモ

 例の小林氏解任について外務省指示で各国の日本大使館ユダヤ教団体に謝罪しているようです。ハンガリーユダヤ教団体がそれをコラムとして発表してます。DLを使ってさらに調整した訳を貼ってみます(続く
mazsihisz.hu/hirek-a-zsido-…

 東京オリンピックのクリエイティブ・ディレクターは、数年前にホロコーストについてのジョークを許していたことが明らかになり、最近になって解雇されました。今朝までは、私たちから遠く離れた国の問題だと思っていましたが、今日の電話で、私たちは思っている以上に人間的に近い存在だと確信しました。


 非日常的な行動の余白に書かれたメモ――安息日に近い雰囲気が漂う金曜日の朝、一本の電話がマジヒス(ハンガリーユダヤ教徒協会)の本部にかかってきた。固定電話はほとんど鳴らないので、着信音が鳴れば鳴るほど、新着メールの警告音が鳴ることになります。回線の先で、考慮されつつもアクセントのある良い声が響いた。外国人には解読不能ハンガリー語の慣用句のあと、声の主はゆっくりと本題に入っていった。


 それは謝罪であった。私たちマジヒス協会へ、そして全てのハンガリーユダヤ教徒へ。


 約四半世紀前にホロコーストの惨状を揶揄した野暮で嫌な冗談により、オリンピック開会式監督を解雇された同胞のために、謝罪しました。


 回線の向こうで、在ブダペスト日本大使館の副大使が、政府と大使館を代表して、日本国民を代表して、一つのジョークのために謝罪しました。


 そのジョークは、ハンガリーの日常で、バスやトラムの中で、友人とのちょっとした酒の席で、毎日のように聞くことができるものです。ちょっとしたものならほとんど意識もされません。より大きなもの、報道により世間に広まったより深刻な事例に、私たちはもちろん憤慨しますが、


 悲しいかな、しばしば諦め気味にこう言います……「これは変わらない。」と。しかし、それではいけない。私たちが住んでいる国では、間違いを認めたり、特に謝ったりすることが習慣化されていません。私たちは内省をせず、反省もせず、悔い改めず、違う形で再出発しようとしません。


 しかし、それではいけないのです。向き合うか、認めるか、悔い改めるか、すべては選択の問題です。日本大使館がその電話で、生の言葉で、ハンガリー語で、これらすべてを行ったという事実は、この国で私たちが慣れ親しんでいるものよりもはるかに多くのことを示しています。ありがとうございました。


 なおこのハンガリーユダヤ教徒協会の別の記事で今回の開会式で1972年ミュンヘン五輪でのテロで殺害されたイスラエル選手のための黙祷があり、これは事件以来、初めての事だとありました。私は選手団入場始まってから観てたのでその黙祷を観てないのですが、小林氏がすぐ解任された理由はこれだと思う。

 報道で確認とりました。この黙祷があるのに小林氏の昔の事とはいえアレは不味いと判断してすぐに解任に動き、在外日本大使館からその地のユダヤ教団体に謝罪が行なわれたのでしょう。しかしこの黙祷にまでいろんな方向性での批判があるのは驚きました。

モーリー・ロバートソン無惨

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 まあ、日本育ちの「ヘンなガイジン」としては、最もトンガっている(死語か)ひとりと言っていいだろうモーリーの、何かのはずみでうっかり毛穴からダダ漏れになるこういう無意識・無自覚なサベツ意識というのは、何というか、まあ、いろいろと趣き深いものがある。故ナンシー関、の佳作を謹んで貼らせていただいた次第。

 ただ、若干のコメントまがいのものをつけておくなら、「親日的ガイジン」の系譜で、それこそかつてのドナルド・キーンに代表されるような独特の距離感と穏やかさ、少なくともこちとらポンニチ土人のポンニチゆえの違和感や反感の類をうっかり表出させてしまうような不手際は絶対にしない、そういう種類の「いいガイジン」のありかたからすると、このモーリーの「親日」身ぶりはひとつ、それまでとは違うところから出てきていると思う、良くも悪くも。

 日本に興味や関心を持つ、その上でなお親しさやなじみやすさを感じるような「ガイジン」、特に戦後わかりやすく見えるようになったアメリカ出自のそういう人がたの「そういう感じ」とは明らかに違う。それは単に個性によるものでもなく、世代というだけでもなく、何か本邦のありかたの変貌と即応した何ものか、が先方「ガイジン」(と敢えてひとくくりにしておく)の側にも胚胎してきているのだろうな、というあたりまでは何となく推測できるのだが、〈そこから先〉はまだ、いまひとつよくわからないままなので、要審議お題として。

*1:2018年のtweet群がいまごろまた論われるようになっている、そのこと自体も興味深かったりするのだが、それはそれとして。

町内会の終焉・メモ

近所が揺れている。高齢化した町内会の廃止。若者が起案した。賛成2割で反対が8割。皆現状は変えたくない。しばらく議論を見守ってから折衷案を出す「廃止はしない」「でも脱退は自由にする」。みんな納得する。実は私は隠れ廃止派だ。もうこの町に子供は殆どいない。これで…普通に滅びていくさ 笑


寂しくはある。ここは私の故郷だ。物心ついた頃から住んでいる。昔は町内会も意味があった。夏祭り、ベルマーク運動、餅つき大会、みな町内会が仕切っていた。でも…もう役割は終えている。最後のイベントはいつやった?ここ15年何の催しもやっていない。だとしたら…滅びを受け入れるしかないだろう。


きっかけはごみの個別回収化だ。これでごみ収集場所の調整や掃除当番がなくなった。街灯管理もそうだ。LED化でほぼ切れなくなり交換業務も消えた。となると…ねぇ。

昨年度、自治会の班長を努めたのですが、ぼくは町内会の存在理由にセーフティネットがあげられると思い情報発信と情報共有の強化を進言したのですが、高齢者が多く二度手間になるという理由で断れました。町内会も時代に合わせて柔軟に変化していったらよいのですが…

このサービスがもっと普及してほしいです

スマホ回覧板
43lab.net/yuinet

町内会って誰のものだろうか?って考えちゃいますよね?

うちの町内会でも、子供がたくさんいた時代の名残であろう行事(スポーツ大会とか盆踊りとか文化祭とか)が残っていて毎年参加者集めに苦労してるようですが、コロナ禍で2年連続行事が軒並み中止になって、それらの意義を見直す時期に来ているようです。


町会に自分の居場所を見出していた旧住民が、朽ちていくサロンの中で最期まで大きな顔をして過ごすのが、とても退廃的で美しいです。

今や共働きばかりだし、行事は減らせばいいと思いますが
町内のほとんどの人の顔を知っていて、向こうもうちの子を知っているという安心感は 良いものですよ。老後は会社を辞めて、近所付き合いもないのは寂しい。

50代です。私が子供の頃は町内会主催のお祭りや町内会対抗の運動会やソフトボール大会とかあっても、参加する子供の立場では楽しみだったのを思い出しました。今住んでるところでも10年前は盆踊りやってたけど、気がつくと無くなってました。寂しいけど、役割を終えたんでしょうね。

大原則として、そのような決議がなくても脱退は自由のはずで、脱退できないとすると憲法違反になると思います。

90年代的な文章は甘えである

90年代の本を読むとかったるいなと感じることが多いんだけど、それは文章を読む人がまだまだたくさんいるだろうという甘えなんだろうな。今の時代はそういうのはみんなすぐに読むのやめてしまうから通用しない


90年代のハシャいだ感じのちょっと露悪的な文というのは本当になくなってしまったな。文章芸というもの自体が消えたかも。寂しくもあるが今さらやるべきとも思わないけど。


「文章っておカタイものだと思われてるけど、実はこんなにポップでフザケたこともできるんだぜええ」みたいなアピールしてるやつ。今はそんなアピール自体無意味になってしまったか。


今はネットニュースの「1ページ目で内容の8割」という書き方でないと2ページ以降は読んでもらえない。そして自分もそういう読み方に慣れてしまっている。

続・QJと小山田佳吾問題

 昨晩鶴見済氏からメッセをいただいた。私の一連のツイートで「完全自殺マニュアル」を90年代の鬼畜系の文脈に入れて書いたことへの抗議(というほどのものではなかったが)のメッセだった。同じ指摘をフォロワーからもいただいていたこともあり、釈明しておかないと、と考えていた矢先のメッセだった。


 以下、鶴見氏への返事を載せる。

Twitterの短い文章ではうまく書けなかったと後悔しています。おっしゃるとおりです。私の趣旨は、ああいう一見「反倫理的」なテーマを扱うことが、90年代前半の「悪趣味系」が流行った時代の中で成立した企画で、「完全自殺マニュアル」の作品としての目的は、むしろ反対側にあると書くべきでした。実際、「完全自殺マニュアル」は鬼畜系ではない、という指摘を何人かのフォロワーから頂いております。近く訂正を入れたいと思います。

 鶴見氏への返事は以上だが、今朝方「週刊女性」のコメントとして送った文の一部を載せる。

「Twitterで私はうっかり90年台に流行った「鬼畜系」「悪趣味系」の言葉を出してしまいましたが、QJ自体は必ずしも鬼畜系・悪趣味系の文脈で編集された雑誌ではありませんでした。特にQJは殊更に反道徳・反倫理を強調する鬼畜系の記事は載りませんでしたが、価値判断を正面に出さず、一見「悪趣味」とも思えるテーマや題材を扱うことはあったと思います。その意味では広い意味での「悪趣味系」と捉えられる側面はありました。私の書いた記事にもそのようなものがあります。こういったテーマを殊更に、露悪的に扱うことは、当時はQJのようなマイナー誌ではよくありましたし、ある意味では今も続いていると思います。


 その意図は、あえて一般的な道徳とは反対の立場を取ることで、世間の「良識」や「道徳」の欺瞞性に疑問を投げかけるということがあると思います。目的は世間の良識・道徳の欺瞞を暴くこと(逆説)にあるので、自分自身が本当の鬼畜になってしまうのは本末転倒と言えます。なので、こういう記事を書くときにはライターに高度なバランス感覚が必要になります。


 小山田圭吾インタビューは、もともとは「いじめられた」側のインタビューも載せる計画で、記事を読むと実際にインタビューを試みた経緯も書いてありますが、結果は断られました。まあ、いじめられた側にしてみれば思い出したくもない過去でしょうし、無理やり取材してもセカンド・レイプになってしまいますから、これは相当に時間をかけて、いじめられた側とコンタクトをとり、信頼関係を築いてから取材する慎重さが必要だったと思います。それができた上で小山田インタビューをすれば、全く異なる記事になったでしょう。その意味では、慎重さを欠いた記事になっていたと思います。

以上。


 雑誌に答えたコメントの一部ですが、全文はかなり長くなり、適当に編集して載せて下さいと先方に伝えました。雑誌が出てから、原文の完全版を後日ネットに上げることも考えてます。


 「いじめ紀行」を掲載したクイック・ジャパン初代編集長の赤田祐一氏は、編集長を他に譲って太田出版の書籍部に異動し、高見広春バトル・ロワイヤル」を単行本化してベストセラーにした編集者です。「バトル・ロワイヤル」はもともと角川のホラー小説大賞最終選考に残った作品ですが、審査委員の荒俣宏林真理子高橋克彦氏らが「こんな不愉快な小説は読んだことがない」「こういう内容を平気で書く作者の精神を疑う」とクソミソに貶して落選した小説で、そのあまりの酷評を読んで逆に興味を持った赤田氏が、新聞広告まで出して作者を探して原稿を読み、内容の面白さに出版、翌年に東映深作欣二監督で映画化して小説も映画も大ヒットしました。これも良識を逆撫でする「悪趣味系」の文脈で語ることが可能な作品ですが、作品性も高いものでした。その後、「バトルロワイヤルもの」とでも呼ぶべき小説やゲームのジャンルが出来たくらいです。