「教養」と「模倣」の間・メモ

 1970年代から50年かけて、マンガやアニメ、ゲームの受容層が高齢化した結果、それらのコンテンツが教養化して、マンガも読まないアニメも見ないゲームでも遊ばない人達は教養人の条件を満たさなくなったんですよ。オリンピックの演出が薄っぺらいという発言は、この層から出ていて馬鹿にされている。


 小谷野敦が喝破したように、教養は「丸暗記すれば誰でも使える知識」なので、パラダイムシフトが起きて使えなくなると、物凄い無力感が襲ってくるんですよね。だから、これまでマンガも読まずアニメも見ず、ゲームでも遊ばずに生きてきた人たちにとって、それらの情報そのものが不愉快なはずですよ。

 ちょうど、先週連載が終わった「双亡亭壊すべし」の最終幕で、二人の主人公がそれに等しいテーマで死闘を繰り広げるんですよ(笑)。善人の主人公はローアート、悪の主人公はハイアートの「絵描き」だったので、ハイアート側が「理解できん」「クズ絵だ」とけなしながら二人で絵を描き合うというww

 「教養」と呼ばれてるもの。アートはその一部で、最古に近いそれはリベラル・アーツ。しかし、思えばリベラル・アーツ発祥の時代にしてからが、それに含まれる数学をそのまま全部生活に使っていたわけではなかった。………ムダ知識としての教養の意味の一つが「脳を揺らす」事だったんじゃないかw


 ローアートとハイアートの間に、本質的な区別はない。ぶっちゃけ北斎なんか明らかに当時はローアートだった(そもそも彼の絵は版画で量産されている)。理解するのにそれ以上の教養は必要なく、ひと目見て「脳を揺らす」だけの迫力があるのが良いところとも言える画狂老人Zの作品群www


……ところが、彼の絵は時代を経て「教養」になった。果ては猫化までしているwww。


 しかし、その本質は猫化してすら変わりはしない。北斎は見た目の迫力が全てなのだ。何も知らぬ猫好きの子供さえも、彼の作品から生まれた猫絵を見れば「脳が揺れる」だけの力を持ってるのが、北斎ism

 ……さて、北斎が「芸術」もしくは「教養」で、ますむらひろしの猫化北斎が「薄っぺらな模倣」と嘲笑う人々が居たとしたら。……それこそ、お笑いというものであろうwww。この2つは同時代の最大多数にとって親しみがあり、分かりやすいものとして「脳を揺らす」悪戯を込めて描かれた「同じもの」だ。画狂老人Zが、自分の絵を猫絵にした絵描きを見つけたら……まあ、こうなったんじゃないかな。


 うすっぺら?「あと一筆」への執念が積み重なったもんだぜw 数万年分。自分の脳を揺らすものを「心地よい」と素直に認める度量くらい、ぼつぼつ持って良いんじゃないか。