「一点透視」の〈リアル〉とウソ・メモ

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 魚眼的なヒトの目で見た景色は、視線の正面の消失点を通過する垂直と水平の線以外は全て、どんな直線的な物体でも実は曲線を描いて視界に入っています。ならばその通りに魚眼的に絵に描けば良いかというとそうでもない。


 魚眼的に描いて、直線的な物体(道、ビル、家具etc.)が曲線を描いていたら、「あ、魚眼だ。演出として誇張して描かれた情景だ」とヒトは思ってしまいます。ヒトは、自身の目で直線の物体が曲線になる映像を見つつ、脳で無意識に直線に変換して捉えてしまうからです。


 なので、魚眼的に曲線で描かれた絵を見ると、本来なら自分が見ている景色と近いはずなのに違和感を感じてしまいます。そこで直線的に描きつつ、二つの消失点により魚眼的景色に近づけた"絵の嘘"が有効になるのです。


 感動した景色を📸撮ったら、観たイメージと全然違っていてガッカリするのも同じことですね。カメラとヒトの目では魚眼の度合いが異なる上に、ヒトは自分の目で見ている景色の視覚情報を無意識に脳内補正してるから。


 左右ちょっと離れた2つの目の視覚情報を脳内で組み合わせて補正しているため、一点透視とは違ってくるというのもありますが、片眼で見ても視点を中心として周囲が曲線をえがいて見えているのを無意識に補正しています。なので片眼で観た(感じた)景色でも一点透視とは異なります。

*1:こういう視覚やその歴史性、映像系情報とそれに対する「処理」の経緯来歴などについては、もちろんいわゆる人文社会系の〈知〉にとっても特に前世紀半ばくらいからこのかた前景化されてきた問いではあるのだが、本邦日本語環境の場合はどうやらそれまでの「文字/活字」の優越が良くも悪くもキツかったらしい分、こういう知識やそれを元にした認識の前提が「一般教養」となってくるまでに本当に時間がかかっている感。そこにまた世代差や現実認識の落差みたいなものも平然とからんでなおのこと。もちろん、自戒も込めて。