2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧

「おはなし」のリテラシーの重層性、について

手塚治虫にまつわる「伝説」についての、もうひとつ別な側面からの考察のための走り書き。殊に、戦後の貸本劇画時代の手塚治虫圧勝状況の背景について。*1 手塚が戦前の阪神間の裕福な家に生まれ育ったことは有名だし、そこで育まれたさまざまな「文化資本」が彼…

ある邂逅

久し振りに顔を出した場所で、久し振りの顔に思いがけず、ばったり行き会った。 世間並みの無沙汰の挨拶、当たりさわらぬやりとりの中、ネットオークションで競走馬のやりとりがされるようになっていることについての話題になった。 「あれ、どうなん?」 微…

柳田國男にとっての「書く」、の再考

柳田國男にとっての「書く」ことの内実とはどのようなものだったのか、という問い。特に、話しことばの切り開く現実の水準に眼を開いてゆくことのできた彼が、それらを書きことばの現実へと、つまり「記録」へと変換してゆくことの意義を、その功罪含めてどの…

「記録」ということ、殊にその現在について、続き

*1 「記録」の過程から主体が喪失され始めているかも知れないこと。24時間体制で稼働し続ける監視カメラのように、シームレスな「環境」として「記録」がされ得るようになっている現在から、誰が何のためにどういう意図で、といった主体の制御の位相がなしくずし…

「私小説的な読み方」の遍在可能性とその影響について

私小説として読むこと、が「作家」の書いたものについてはもとより、他でもないその作家自身についてもそうだったかも知れないことについて。*1 世の中に対する見方や考え方、起こったできごとや事件、あるいは日々身の回りの「あるある」事案などについて、…

紙芝居とラジオ・雑感

*1 紙芝居、子どもたちが熱狂したというのは総論そうだと思うけれども、戦前までのそれとは視聴の仕方(ヘンな言い方だが)が変わっていった過程もあるんじゃないか、とは思うとる。よく古い写真にあるように子どもたちがまわりに群がって熱狂というのは戦後の…

「記録」ということ、殊にその現在について

「記録」の意味がなしくずしにこれまでと変わり始めているらしい、こと。昨今の役所の文書「改竄」騒動その他、あれこれ眺めながら考えている。 国会での追及沙汰が、もう何のためのものかわからなくなっている状況なのはひとまず措いておく。「改竄」を声高…