「ダンナ」と「カネ持ち」走り書き

 「カネ持ち」というのは、どうしてそういうカネ持ちになった/なれたのか、その理由や道筋は、世間一般フツーの人がたからはよく見えないし、わからない。わからないからこそ「カネ持ち」というイメージも輪郭確かに持つことができたらしい。けれども、昨今はたとえ上っ面だけでもその実入りなり年収を「比べる」ことができるようになった分、そういう「カネ持ち」のイメージもまた、輪郭もその内実もひとしなみに薄くなったような気がする。

 「カネ持ち」は「旦那」でもあることを当然、期待されていた。それは資産や収入の額の多寡でなく、それらをどう「使う」かにかかっていた。そしてもちろんその「使い方」にも「民俗」レベル含めた批評や評価、ゆるやかな監視の視線があった。

 世間一般常民の目からはよくわからない世間で何か成功した「カネ持ち」になったということは、当然、自分たち世間一般の世間に対して何らかの「旦那」として振る舞うことが求められる。で、それは「カネ持ち」の側からはある種「施し」的な意味あいも含まれてくるわけで。そういう意味では、道普請したり橋かけたりも世間一般への「旦那」身振りとして正しいし、妾囲ったり力士のタニマチになったり政治家の後ろ楯になったりするのも基本、それと地続きなわけで。

 そういう局面における「クロウト」の世間というのは、それら「旦那」をあるべき「カネの使い方」に導くアタッチメント的な役割を果たしてもいた。「カネ持ち」が正しく「旦那」として振る舞おうとしている間は、カネもまた自分たち世間一般にもまわって、その他おおぜいの自分たちもまたどこかで恩恵を蒙る。そういう「旦那」であることを自覚させてカタにハメてゆくのが、水商売や芝居、相撲その他いわゆる「クロウト」の世間の役割だった。