「世相」「大衆心理」という関心・メモ

 「世相」とか「大衆心理」とか(その他何でも)それ系を対象に構えてもの考えようとした際、「科学」「論理」「エビデンス」(その他何でも)系の昨今自明に重要視される類のもの言いとの折り合いどうつけるのか、ってのはどうも無視でけんらしく。殊に若い衆世代にとっては。

 流行歌や大衆文学などを素材にそれら「世相」「大衆心理」の類を探ろうとする芸風は、いわゆるガクモン界隈以外にも裾野広いわけで、社会評論や文明批評、随筆の類まで何でもありっちゃありな分、こじつけ勘違い思い込みトンデモに足とられんようどこで正気保とうとしとるか、が肝心カナメのはず、なんだが。

 「科学」「エビデンス」系の縛りかけるのもひとつではあるんだろうが、ただ本邦日本語環境のこれまでのそれら芸風の系譜からすると、妥当性や説得力は「読者」との関係で、共感において担保されるという(昨今感覚からすりゃ)荒技によって、というのが割とフツーにまかり通ってきたのも確かではあり。

 で、そういうのは「科学」「論理」的じゃない、エビデンスも客観性もいい加減、というツッコミが昨今割と「正義」だったりするようだけれども、そういういまどきな「正義」になっとる分、その「正義」ごかしに産湯ごと子まで流しちまう別のワヤも横行し始めとるような。

 これってある意味「ポスモ/ニューアカ」系の症状が未だに悪さしとる局面でもあり。「世相」「大衆心理」の類を何とかことばにしたいという欲望が「読書/教養」系市場のニーズ含めて存在して、それとの関係であれこれジタバタしてきた経緯を最低限留保した上でないと、昨今あちこちで観察されるようになった「新しいもうひとつの歴史修正主義」という「正義」ごかしのワヤは暴走する。