「大衆」コンテンツを扱う方法・雑感

 汎用量産型の「大衆」文化コンテンツの「研究」なり「批評」ってのは、ひょっとして「網羅」したりコンプリートといった方向での「全部おさえる」的な手続きってのはある意味、必要じゃないのかもしれんでな……少なくともそれだけではないアプローチはもっと誠実に考えられるべきだと思うで、な。

 ヒントというかきっかけになり得るのはは、たとえば「定型」ということと、それをどう「方法」に繰り込んでゆくのか、とかな。

 どれもこれもおんなじようなもん、になっちまっとるジャンルなり領域に対して、どのように「把握」し「わかる」に繋げてゆけるのか。そのおんなじようなもんを「網羅」することだけが必須の手続きなのか、というあたりのことなんだろうな、と。

 これ、実は「民俗学」の方法論批判にも通底しとるお題なんだがな……

 「網羅」することで初めて「比較」がまっとうなものになる、あるいは「信頼できる」結果をもたらすことができる、というリクツの前提にあったはずの、ある時期まで自明であったような「科学」とそれを担保する「科学的」手続きについての理解、とかな。

 もはや「歴史」の範疇だろうが、柳田のあの「重出立証法」への批判が起って、全国対象にあんな同心円で説明するのは雑過ぎるだろコラ、な批判が主流になっていった中、小野重朗という地方の御仁が自分の地元(鹿児島だったか)限定で「重出立証法」使ってかなりわかりやすい結果を出したことがあってな。

 「よく似た」話なり風俗習慣なり(要は「民俗」とひとくくりにされとったわけだが)の微細で往々にしてどうでもいいような「違い」、はしかしそれが伝承され未だ〈いま・ここ〉で上演されている「場」において意味はあるわけで、そんなもんわざわざ言わんでも当たり前だろ、と当時の自分はおもとった。