「新人類」の「老害」化・メモ

 「新人類」の「老害」化、について。例によってTLから拾遺。

 因果応報も見えない話ばかりではなく、論理的に明らかな話もあって、今の50代が退職を見据えて身辺整理をしようと思ったら運営を引き継ぐのにちょうどよい40代がいなくて、いきなり30代20代に渡すのも不安で嫌だし、たぶん無理だし…ってのは、40代の世代を蔑ろにしてきた行動の結果というわけで。


 簡単にたとえるなら、種モミを食べてしまったので畑ができませんっていう話なわけで、なんで未来について予測しなかったんですかね?っていう、そういう話ならいくらでも学ぶところがあると思うじゃんねぇ。就職氷河期世代、ちょっと無理しても確保して育ててこなかった組織は引き継げない。いや、今の若者は真面目だし教育リソースもかなり注ぎ込まれてるんで優秀なんだけど、50代が受けてきた教育と乖離がありすぎて、いかに20代が真剣に耳を傾けたとて、50代の語ることの半分くらいしか意味が取れないんじゃないかと思う。理解度50%ならアウトプットはもっと乖離すると思う。


 そんなわけで、言葉がまず通じないので、各位がいかに真剣にやったとしても本当に社風とか仕事のやり方は引き継げないと思う。抽出された知見だけなら若者は拾うかもしれない。というわけで、世の中は老人の抵抗むなしくどんどん変わっていくかもしれないね。


 いや、50代には50代のさ、戦中世代の顔を立ててろくでなしの団塊世代の横暴に耐えて、私たちも苦労したんだ被害者的な側面もあるんだって主張はあろうけど、自分たちが新人類と呼ばれたより深刻な世代間ギャップが来てるわけで、未来にむけて投資してこなかったのはよくなかったですよねって話なのよ。自分たちが30代のときに、下の世代の風向きがうんと悪そうだという変化を感じ、上の世代を見て「このまままでダメそうだ」と思い、余力があれば若者に配慮した舵取りをして、余力がなければせめてあたたかい言葉をかけるなり励ますとかさ、各位できたことあったんじゃないかなぁ。逃げ切りと呼ばれて悲しいとか、そういう憂いにひたれるのも、そういう憂いに共感できるのも、ただただその世代の人だけのことで、他の世代からしたら「正直しらんがな」とい状況は紛れもなく自分たちの手で作ってるじゃないかと思いますです。


 団塊の世代ほど憎まれたりもしないかわりに、特に尊敬されたり感謝されることもないひっそりと"寂しい"世代として終わっていくことで、本当にそれでいいのか納得いくのか、50代はまだきちんと頭を使って考えれば評価を変更するチャンスはあるんじゃないかなとも思っています。

 自分ごとを振り返れば、40代手前で「あ、こりゃこのままいったらえらいことになる」と痛感して当時の勤めを辞めたわけだが、*1「上の世代」(いわゆる団塊とその直後くらいが主標的)とつきあいながらその場にとどまりながら事態を好転させてゆく目算がまるで持てなかった分、「下の世代」(主にとりあえず団塊ジュニア界隈)への信頼や期待といったものは、ここで指摘されているような事情とあまり変わらなかったかも知れない。「これまでの世代とは違う」という世代的自意識なり自覚みたいなものは、自分たちのみならず「下の世代」に対して当時は無条件に地続きだったんだろう、と。で、それは「戦後」の「若者」信仰の構造とも基本的に地続きでもあったらしいんだが、それはその頃には当然、まだ気づかれることもなかったわけで。

 あの頃、辛抱してその場に踏みとどまって「上の世代」とつきあいながらそれぞれの現場を維持し、守ってきた同世代はその後、50代にさしかかるくらいからいきなり組織なり職場の側からハシゴを外され始めたりもしたわけで。と同時に、「下の世代」が自分たちと別の内実育てていた(あたりまえだ)ことにも否応なく直面もし始めたわけで。「上の世代」を「こりゃもうつきあってもムダ」と放り出して切断してきた分、「つきあいながら事態を好転させる」ための知恵や手管を身につけられなかったから、「下の世代」に対しても善意の放任、結果的に「鍛える」関係を構築することをしないままになっていたらしく。「自分がされて鬱陶しかったりイヤだったことは下にはやらない」というのを割と善意で本気でやってきたら、見事に自分も含めて「未来」のタガをgdgdにしてしもたらしいところ、はあるような気はしている。

 「ちゃんと鬱陶がられたり疎まれたりする責任」というのをできるだけ回避して、結果的にそういう属性が欠落したままトシ喰っておっさんおばはんにうっかりなってきちまったのが、いわゆる「新人類」世代の特徴のひとつであり、決定的な弱点なんだろう、と。

 生身の生きものだから負荷をかけて「変わる」のはあたりまえなんだが、そのうまく負荷をかける、かけて「関係」と「場」で「育てて」ゆく、というあたりの匙加減やそこに求められる知恵や手管、感覚の類を自分たち自身にも同じく負荷かけながら宿してゆく過程から逃げてきたところがあるようにおも。「親(殊に「父親」」や「先生」「上司」の類にうまくなってゆくこと、ができないままになっとるわけで。で、それはざっくり「リーダーシップ」の輪郭が煮崩れていった30年ほど、ということでもあり。

 ロスジェネ氷河期世代に対する社会の側からの仕打ちについて、「どうしてこうなった」と疑問が投げかけられることは、当事者のみならず下の世代からも起こってきていることだが、政治や政策、経済などの大文字大枠の事情と共に、いや、もしかしたらそれら以上にそういう世代的な共通感覚、その時代に何となく共有されていた気分や感覚といったものの最大公約数が現実に作用していった結果、といったところも案外大きかったのかも知れない、と疑っているところはある。*2

*1:その「えらいこと」というのはまず自分自身の人生として、という意味あいであって、当時属していた職場なり業界なりの先行きが、という意味あいもなくはなかったけれども、正直、二の次三の次だった。「命あっての物種」という古臭いもの言いが〈リアル〉に感じられる程度には。ただ、今となってはその感覚やその上に立った判断が果して妥当だったか、という点についてはいろいろ留保しておいてもいいような感じも持っている。トシを喰う、ということの効果という意味でも、また、単にそれだけでもなく。

*2:「オトナ」になれない、「親」になれない、リーダーシップを発揮できない、というあたりの問題にも関わってくるはずで。社会的な役回りを引き受けてやってのける、演じてみせるという主体性が剥がれ落ちていった過程と、そこで悪さをしていただろう「個人」や「自由」といった徳目の類の関係についての自省の必要。まあ、これもまた例によってのgdgdと続いてゆかざるを得ないお題系のひとつになるのだろうが。