「科学的」な歴史学、とは?・メモ

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 件のやりとりもそうですが、どうも自然科学的なやり方こそが「科学的」だと思っている人達と、その自然科学ですら「同一のデータから(研究者の人生経験や経験に関わらず)同一の結論が導かれるのが科学」なんて思っていない…ということが分かってない人達がいるみたいですね。


 歴史学に関して言えば、あれも「過去のある時間にすでに(実際に)起こったこと」を探るという意味では自然科学に近いと思いますが、過去のあらゆる事象が記録されているわけではないので、進化学などと同じく「ミッシングリンク」による限界のある学問です。その視点の無さそうな人は散見されますね。


 ただ、ひょっとしたら「(日本の?)歴史学」というのは上のようなことを探る学問ではなく、「『存在している史料(の枠内)から何が言えるのか』という知的ゲーム」なのかもしれないと、一連の歴史学者達の話を読んで感じました。それなら論争が噛み合わなくて当然ですよね。

マルクス主義的な歴史研究の功罪
ここら辺の視点はとても大事で、旧来の王朝史や人物史的な歴史研究から脱却して、経済学からの視点やアナール学派のように民衆や社会環境、文化等への歴史研究の眼差しが注がれるようになったのは、マルクス主義系の研究者達が「民衆史の発掘」的なテーマで各方面の資料発掘や読解、分析を世界規模でなおかつ各地で精力的に取り組んだお陰。


 問題は、そうして発掘した資料をイデオロギー的な色眼鏡で見てしまうと資料内容との齟齬が埋め難く生じてしまうため、そもそも「イデオロギーの色眼鏡」を掛けて資料を読む事自体が誤りではないか、という意識が資料研究の現場から、それこそ戦前からぼこぼこ出て来た感じ。


 資料発掘や経済学的数量的な分析方法は十二分に有効ではあるけど、そこに「イデオロギーの証明に資する」的な先入観を排除し、資料の性質そのものを分析しよう、という流れが徐々に強まって冷戦終結に至る感じだったので、現在はそういったイデオロギーの時代ではないからと、「共産主義政権時代の研究だから」と先行研究読解の対象から外してしまうのは多いに誤りで、その時代に蓄積された研究実績でも「充分に」咀嚼・吟味して今現在の研究に資するのは、今現在でもやはり重要かつ有用、という感じ。

 「学問」って、一次資料や直接観察できる素材、現場仕事の取材調査実験沙汰で得られるデータの類に「だけ」依拠して成りたつものじゃないはずなんだが、な(;´Д`)y─┛~


 それらを扱う手続きや作法その他はそりゃ大事だし尊重もすべきだけれども、その結果得られた(二次的三次的)知見の上に何らかのジャンプを含めてあれこれゴソゴソ七転八倒することもまた、「学問」という名に値する〈知〉の営みのうちなんだと思うんだが、な。


 「一次資(史)料」や「現場」の知見実験体験見聞取材フィールドワーク(その他何でも)の類、に何か過剰に「正義」や「正解」を背負わせてしまう性癖みたいなの、最近ちょっと過剰にブーストされてきとるんと違うかいな。そういうのと「専門家」「アカデミシャン」「プロ」(その他何でも)の類、が併せ技であれこれいらん抑圧や不自由や呪縛を自ら招き寄せるようになっとるように見える。


 近現代史でも社会学でも(もちろんポンコツ民俗学でも)、いずれ〈いま・ここ〉地続きのの事象相手取るガクモンなりジャーナリズムなり何なりは、まずごく素朴に「野に遺賢あり」ということに謙虚になることが前提条件だと思うんだがな。まして本邦近年いまどき情報環境下においては。出自背景来歴その他とりあえず無関係に、誰もが自身の体験見聞の範囲で何かそれなりの貢献ができる、「ああ、あるあるそれ」的な共感と共に参加できる、そんなガクモンなり〈知〉のありようを夢想してガチに運動仕掛けてみた人がたのひとりが、たとえば柳田國男だったりしたはず、なんだが、な(´-ω-`)


 「専門家」とか「プロ」とか、そういうもの言いで自ら好んで何か背負ってしまう、そういう態度立ち居振る舞い自体がもう、〈いま・ここ〉地続きの事象相手取って何か「わかる」につなげてゆこうとする営みの本願から無縁のものだったりするんだわなぁ。*2

*1:ざっくり昨年後半くらいからか、TLのみならず思想/論壇系界隈wでそれなりに大きなトピックになっている「歴史」「歴史学」がらみの問題について。まともに首突っ込んで消耗するのはちと剣呑なお題ではあるので自分的には敢えて距離取るようにしてきているけれども、表舞台で派手にあれこれやりあっているような水準だけではなく、やはりTLでは穏当な違和感もまたそっと表明されていたりもするあたり、本邦Twitter世間のリテラシーが担保している信頼性でもあるかと。

*2:というわけで、改めてまたいつものように、「おりる」ことの必要、「名無し」という主体の確立、そしてそれらのゆるやかな協業連携、という基本線の確認を。