新聞記事をまるまるコピーしたり写真とったりしてアップするの、ご遠慮ねがえませんか。何人もの人間が長い時間と手間をかけてまとめ上げた商品だったりするのです。この商品からの収入に、新聞社や関係する人たちの生活がかかっています。ご配慮をお願いいたします。
— 和田浩明/Hiroaki Wada (@spearsden) 2019年9月29日
これ、デジタル媒体でも同じで、キャプチャやコピペで流されちゃうと、アクセスによる広告もサブスクリプション収入も得られなくなっちゃうんですよね。新聞に限った話でもなし。書籍、雑誌などもそう。価値があるとお考えになる記事については、ご理解ください。
新聞記事も、ものによっては1本百万単位の経費がかかるものもございます(例外ですが)。情報の収集には、ことさら費用と時間がかかったりいたします。商業媒体の継続には、お金がいるのですよね。
この全文拡散はご勘弁をという話は、「紙に拘る」という話じゃないんですよね。デジタルでも紙でもであります。で、紙の収入がある以上、霞食って生きてられないのだから、そこは維持しようとするでしょう。でも、趨勢から言って、いつまでも維持できませんよね、どうするか、という話です。
手前味噌になりますが、新聞報道にも社会的意義はあって、例えば掘らないと公にならない話を出す。今話題の関電幹部による原発立地自治体首長からの資金の動きなども、毎日新聞の報道によるものですね。関電が自発的に発表したとは思えない。
仮に、二次利用自由とした場合、どうやって媒体運営を継続するにたる利益を得ていくか。購読者にどう説明するか。拡散してくれる人の集まりをどのように利用者コミュニティと捉えて何を商品・サービスとして提示していくのか。
ツイートの真意をご確認させていただきたいのですが、リプ欄にもありますが、記事のリンクを貼って、内容の要点を紹介したり、コメントを付けてツイートしたりすることは問題ないと考えてよろしいでしょうか。
お問い合わせありがとうございます。私はないと思います。引用であれば、法的に認められた権利です。ご参考までに、文化庁の引用に関する案内です。pf.bunka.go.jp/chosaku/chosak…
記事を見て「この新聞を読もう‼️」と思う方もいらっしゃるのではないかと、、、(^◇^;)ちなみに私は「しんぶん赤旗」をアップしていますが、許可取ってあります^_^「しんぶん赤旗の記事が、ツイッターで2万リツイート出しました」と、次の日のしんぶんに書いてくれていましたd(^_^o)✨
はい、その可能性は認識いたしております。許可をとっておられるのであれば、私がどうこう言う話ではございません。私としては、広めて頂けるのであれば、引用(リンクや記事の一部の使用)の形がありがたい、ということです。
紙媒体のひとつの終焉、が静かに、しかし確実に始まっているということは、いまさら改めて言うまでもないだろう。「紙媒体」という言い方は雑に過ぎるとしたら、ここはとりあえずこの場で言及されている「新聞」、ないしはそれに準じた「報道」を旨としてきたメディアに限ってもいい。それが商業メディアとして、つまりゼニ出してまでそこに掲載されている情報が必要であり、欲しいと思わせてくれるようなものであることが今後、保証されてゆけるかどうか、ということが当面の大問題。少なくとも、そこで喰っている人がたにとっては。
媒体がどのようなものであれ、そこに盛られるべき「情報」の価値はそのありようとは別に計測され得る。自前で独行していたライターが手にした「情報」が、彼の生業に従ってどのような媒体に出力され、換金されることになろうが、彼自身が身体を張って獲得してきたその「情報」の意味は彼にとって変わるものではないし、そもそもの「情報」とはそのように「主体」との関係で最初の原点、いわば初発のかたちを与えられるものだと思う。
ただ、とは言うものの、紙媒体の新聞という商品に「報道」の重心をかけてしまわざるを得ない渡世というのも、すでにして存在する。存在する以上、それが滅びてしまわぬようにあれこれジタバタするのもまた、人の世の常である。だから、ここでTLにあらわれたようなある種の吝嗇、商品流通に関するある意味の道徳めいた「正論」と共にうっかり発露される、いまどきの情報環境が介した地点ならではのケチ臭さみたいなものも、また漂ってくる。
何がケチ臭いのか。web介したいまどきの情報環境の、遠近法など初手から無視してしまうかのような「広がり」の中で、ことさらになお自分の足の立ち位置を確認してみせるような、そしてそのことによって少し前まで確かにそれなりに仰ぎ見られ、尊敬され、提灯さえつけてもらえていた自分、およびその眷属も含めた自分たちの出自来歴を、この斜陽の現在に確認してみたがるような、そういうところに必然的にまつわってくる隠しきれなくなった俗物ぶりが、だ。
「正論」ではある、らしいのだ。字ヅラそのものとしてはとりあえず。商品としての「報道」に乗ってくる「情報」には、それを形にしてゆく過程のコストが大なり小なり上乗せされている。だから、いかにコピー&ペースト自由自在な環境に接しているとは言え、その「便利」に乗じた放埒をしてもらうとそのコストがないがしろにされて、ひいては「報道」が商品として成り立つ地盤すら煮崩してしまうことになる。わかって欲しい、理解して謹んで欲しい、と。
でも、「引用」ならば致し方ないところもあるよ、と。だって、「引用」してもらうことで、その商品の本体に誘導してもらえることもあるらしいし、そういう利益が見込まれる程度ならば、先の「正論」もちょいとばかり融通きかせても構わないからさ、と卑しく口もと歪めつつ。
ここですでに「正論」は純潔を失っている。失っていること自体を意識していないらしいほどに、それはとうに純潔でもなくなっていたらしいのだが、そのことはまあいい。言っておきたいことは、そういう「正論」の普遍性、いやそこまで言わずとも、「正論」の正論としての文脈越えた品格や内実みたいなものからして、もはやいまどきの情報環境の融通無碍の真っ只中で個々の文脈、どのような立ち位置の主体がどのようなベクトルで放射していたものか、といった個別の事情に否応なくからめとられたところでしか存在しない、できないらしいという厳粛な事実だ。
というわけで、もう一度、味わってみよう、この一節を。
広めて頂けるのであれば、引用(リンクや記事の一部の使用)の形がありがたい