「虚構」「創作」は常に「現実」の一部であり、それらも含めて〈リアル〉は編制され更新され続けている(`・ω・´)
— king-biscuit (@kingbiscuitSIU) 2020年1月3日
逆に言えば、「現実」も「虚構」「創作」の一部でもあり得るし、そういう〈リアル〉もすでに編制され始めているらしい。
アニメ的な〈リアル〉ってのは「声」が重要な要素になっているらしい、というあたりまでは何となくわかっとるつもりだけれども、ただそういう〈リアル〉の構成なり文法なりというのは、こちとら老害化石脳のなじんできたそれと決定的に違う何かもまたすでにはらんどりそうな予感はある。
たとえば、実験としてでもいいんだが、実写の映像に敢えて「声優」の「声」をあててみた場合、それら映像作品・創作物としての質や、そこから喚起されるものなど含めて、果してどのような「違い」が生まれてくるのか、など。洋画や海外映像作品の「吹き替え」というのは、意図せぬところでそういうことをすでに行なっていたところがあるわけで。さらにさかのぼれば、無声映画時代の輸入ものシャシンにつけられるカツベンのありようや、あるいはのぞきからくりと口上の関係などにも。映像が映像そのものとして受け取られるための条件なり受け手のリテラシーなりというのには、文化的な偏差があるんだろうとはおも。
本邦「声優」がたの「演技」(と言われとるけれども要審議)の定型化は、その「声」の質も含めて、そのようなアニメ的〈リアル〉の平板化(とひとまず言うておく)を本質的に規定しとるんでないかいな、とかいろいろと要審議。
違う話かもしれませんが、映画の日本語字幕を「嘘字幕」にして遊んでいる動画が流行したりしましたね。たしかランボーのパロディをやったアニメの音声を、実際のランボーの映像に合わせてみたという動画も見たことがあります。洋画の吹き替えとはまた違った感じを受けましたね。 https://t.co/YL6PvBML1P
— C.Loevler(カール・レーフラー) (@loevler_c) 2020年1月3日
関連して以下、過去のTLから拾っておいたtweetを引用的にこういう文脈で紐付けてみるのも、問いの現前化、あるいは立体化みたいなことに役に立つらしい。
「現実とフィクションは区別できない」と「現実とフィクションは別物である」は確かに違うんだけど、その「確かな現実」との接点を我々は物凄い勢いで失っているのでは、てのは感じるんだよな。養老孟司とかが散々叩かれながら言ってた『脳化社会』てのは多分そういうことなんだろうと理解してる。
— あきひろ (@Werth) 2019年5月27日
もちろんそういうのが老害の杞憂だって可能性は十分にあるんだけど、コップの水がこれまで溢れなかった、ということは将来に渡ってコップから水が溢れない、という話ではあるまい、というか。
話が逸れたけど、我々にとっての「現実」が「自分の信じたいフィクション」になる時代は遠くないというか、何ならもう来てるんじゃねーかしら……。