「論壇」は復活しない

 こういうと悪いけど、どういうコマを揃えようと「論壇」は恐らく復活しない。今の人は「論客」の意見をありがたがって聞くというより、自分でネットで(拙い意見でも)発信し、その中で人と(拙くとも)議論する、というほうに楽しみを見出す。実際、論壇誌とか今買ってる層の多くは後期高齢者ですよ


 多分「頭のいい人や偉い人の意見を幕の内弁当的に並べれば、一般の人がありがたがって読む」という“論壇的ビジネスモデル”は今後機能しない。これからの「論客」は、ネットなり何なりの中の「有象無象の議論」にエサを与えピエロ的に立ち回れる人で、現に有名ユーチューバーとか大抵そのように感じる。


 例えば「今スクープやっても収益に結びつかない」とは本当によく言われるんだけど、それは「○○氏が不倫」というニュースがあったとして、今の人は「その情報が欲しい」というより「その情報をネタにあーだこーだ(ネットなどで)言いたい」欲求の方が強いからで、一行情報でよく、雑誌買わないのだ。


 以前、詩人だという人に「今の日本で詩集を買う人はプロ・アマ問わず大抵が自分でも詩作をする人で、純粋な読者は少ない」なる話を聞かされたのだが、時勢論も恐らくそうなりつつあって、「論壇」的なものに触れたい人は自分も何か言いたい人で、黙って拝聴する人は少なくなっていると思う。


 自分は以前、いわゆるネット右翼的思想を持ち、街頭活動などをしてる30代くらいの人と話をしたことあるんだけど、日々ネット上の政治論争はがんばってるけど、正論とかWiLLとか、ほとんど読んだことがないと言っていて、こりゃあメディア商売としてはヤバいと思ったけど、覆す方策も見当たらない。

 「論壇」という言い方自体、「文壇」などを下地にして派生的にできあがって使われるようになってきたものだったはずで、それでもあまり一般的だったとは言えなかったのが、ここ20年くらいでやたら普通に使われる単語になってきたのは前々から気にはなっている。

 おそらく、あの「ゴー宣」あたりで一気に広まったのかも知れないが、それに乗って当て推量するなら、それこそ『朝生』などで「討論」「議論」をある種の見世物、マスメディアの舞台でのショウコンテンツとして提供されるようになってきたことで、そのような場で何かもっともらしくものを言い、議論を戦わせるという態であれこれ演じてみせる言論プロレスラーたちが、これまたある種の芸能人として人気者扱いする場ができてきた、それらの経緯などとも関連してのことだったようにも思う。「言論」とか「言論人」といった言い方も同様に、一般化していったような。

 要は、何か「もの申す」人たち、床屋政談のレベルを何らかの公共性、「公」の装いとたてつけとの中で言ったり書いたり暴れたりしてみせることで世渡りしている(ように見える)界隈、それらがそのような世渡りできている場が「論壇」という言い方であらわされるようになってきた。芸能人なら歌を歌ったり芝居をしたり、あるいはお笑いをやってみせたりと何か「芸」があってそういう場に立っているという理解だったものに、それら「言論」もまた、ある種の「芸」として受けとるような地続きの感覚がそれらを見ている世間、「観客」の側に宿ってきたということでもあるだろう。

 もともと総合雑誌というのがあった。これも時代によって意味あいが微妙に変わってきているのだが、この場の文脈で粗くとりまとめれば、活字でそれら「言論」をやるための場という意味は確かにあった。というか、その「言論」というのもそれ単体で使われる独立した単語というより、もとは「批評言論」というまとまりで使われていたものが、それらの領域が既成事実的に確定されてゆくことで、いつしか切り縮められて「評論」となり、また一方では「言論」にもなった、という経緯来歴もあるらしいのだが、それはともかく。