あたしのビートルズ

 6年4組のみんな、卒業おめでとう。最後に先生から話をします。イオンとドンキしかない国道沿いのこの街を捨てて東京に出て、早稲田大学教育学部からメーカーに入って、僻地工場勤務で鬱病になって、かつて唾を吐きかけたこの街に逃げるように戻ってきた先生の、あまりに惨めな人生の話をします。


 先生の家の車にはいつもビートルズが流れていました。母が駅前の、今はもうなくなったHMVで買ったアルバム。別にビートルズが好きなわけではありません。スピードラーニングのように、それを聴くだけで自分の子供が石川遼のように英語をペラペラと喋れるようにならないかと、曖昧に望んでいたのです。


 父は地元の国立大を出て中国電力に就職しました。母は地元の高校を出て中国電力に就職しました。二人の両親もそんな感じだと思います。何にせよ二人は結婚し、先生が生まれました。この街には娯楽がないし、何より知性がありません。父の愛読書はスピリッツで、母の愛読書は花より男子でした。


 小学四年生の時だったかな、社宅の隣に住んでいた高橋さんの息子が法政大学に合格したというニュースが我が家に飛び込んできました。「東京」という、この街には存在しなかった選択肢が降ってきたのです。両親も、そして何より私自身も、岡山大学を出て中国電力にでも就職するものだと思っていました。


 子供を育てるというのは大変なことです。質量保存の法則みたいなもので、自分が与えられてきたものしか子供に与えられないものです。親から少女漫画しか与えられてこなかった母は、子供を東京の大学に入れる方法なんて知らなかったのです。そこで母が苦し紛れに買ったのがビートルズのCDだったのです。


 ビートルズの効果だったのかもしれません。先生の成績は順調に伸びました。近所の公立中から朝日高へ。塾にも通い始めました。駅前の東進です。東京で録画されたらしい授業のDVDを、ショーウインドウの奥のトランペットを欲しがる子供のように、この片田舎で必死で眺める。来る日も来る日も。


 第一志望は早稲田の法学部でしたが落ちて、唯一受かった教育学部に進学しました。下落合の、川沿いの三点ユニットの狭い1K。テニスサークルに入って、毎日わっしょいで飲んで吐いて、ロータリーで騒いだり寝たりして、グラニフやビームスのTシャツを着て― 先生は、東京の人になったつもりでいました。


 成人式で地元に帰って愕然としました。もうこの街に先生の居場所はないし、いたくもないなと思いました。ヤンキーは相変わらずヤンキーのまま偉そうにしていたし、岡大に通う元同級生たちは、久々に会った僕を駅前のマックに連れて行って、怪盗ロワイヤルなんかの話を延々としていました。


 この街の人生に上昇も下降もありません。この背の低い灰色の街のそのまっ平らな稜線のように。なんとなく生まれ、なんとなく大学は出て、なんとなく就職して、なんとなく結婚して子供を生んで家を買って― 逃げることを諦めた動物園の檻の中の猿のように、この街の人々はなんとなく生きていました。


 先生は違うと思っていました。先生は先祖代々続いてきた怠惰と無能の鎖をまさしく自分の力で引きちぎり、一族で初めて東京に出て、そこで成功して、二度とこの街に戻ってこないんだと、そう信じていました。帰りの新幹線。東京駅のホームから丸の内の端正な街並みが見えたときの、あのときの気持ち。


 せっかくだからと教員免許は取るだけ取って、先生はメーカーに就職しました。丸の内のメーカーです。先生はスーツカンパニーの黒いスーツを着て、仲通りを歩きました。あの春の日。空はどんよりと曇っていて、新品のリーガルの靴はどこかで擦って小さな傷が付いていました。先生は仲通りを歩きました。


 研修を一通りやって、先生は本社のグローバルマーケティング部門を希望していました。配属は僻地の工場の総務人事。最悪です。縁もゆかりもない北陸のその街は、ゾッとするほどにこの街と似ていました。イオンとドンキ。パチンコと風俗。どこまでも続くように感じられる、長い長い灰色の国道143号線。


 東京の人は先生とあと二人くらいで、残りは地元の人ばかりでした。彼らは最年少の、それも東京ぶってるけどまた別の田舎町出身のワセダ卒が、この田舎町を軽蔑していることを察知しました。先生は甘くて飲めたもんじゃない缶コーヒーを断り、家で淹れてきたキツネカフェのコーヒーを飲んでいました。


 いじめらしいいじめがあったわけではありません。しかし、嫌われて誰からも話しかけてもらえないということは、先生の心を徐々に削ってゆきました。先生は定時になると逃げるように退勤して、あてもなくヴィッツを走らせながら、車内で衝動的に大声で叫んだりしていました。誰にも届かない叫び。


 ある朝。工場みんなでラジオ体操をしている途中で先生は吐きました。古いスピーカーから流れる陽気なラジオ体操の音楽。地獄のような僻地工場勤務の一日の始まりを告げる音楽。先生は立てなくなって、あの日仲通りを歩いたリーガルの革靴がゲロまみれになっているのを見て、もう無理だ、と思いました。


 先生は少しお休みして、それでも心の調子が戻らなくて、本社人事部付で東京に戻されました。仲通りを歩いてみました。テラス席に座ってコーヒーを飲む自分が向かいのビルのガラスに映っていました。僻地で酒浸りになり、ブクブクと太った醜いその姿は、うつくしいこの街を汚しているように感じました。


 みな僕のことを腫れ物に触れるように扱いました。缶コーヒーを拒否してキツネカフェを飲んでいたとか、事務所でNujabesを流していたとか、そんな話まで本社に伝わっていたらしいのです。僕が嫌いな同期は、グローバルマーケティング部門で活躍して新卒採用のパンフレットに載っていました。


 結局、少しして先生は会社を辞めました。先生が陰で何と呼ばれていたか教えてあげましょうか?「オシャレ」です。僻地で鬱になって、本社に戻されて派遣のオバサンたちに「いつまで経っても勘定科目マスタの設定すらできない」と馬鹿にされながら、オシャレなカーディガンを着てコーヒーを飲んでいる。


 唯一受かったベンチャー経理事務をやっていましたが、そこでも「残念ながら求められるバリューを出せていない」と試用期間で切られました。問題は無能だけではありませんでした。他のメンバーから嫌われ、私以外全員が入ったslackグループができるほどに、私は人間関係に難がありました。


 たぶん先生は、自分は特別な人間だと思っていたのです。東京で生まれた人が東京で何となく生きるのとは難易度の違う人生を、先生は自分の力で生き抜き、そして自分の力で東京に辿り着いたのだと思っていたのです。先生にとって東京は特別な場所でした。自分の特別な価値を証明してくれる、特別な場所。


 そして先生は東京から転落しました。先生には特別な価値なんてものはなくて、ただ人を見下し、それでいて見下し続けるだけの努力も能力もなく、すぐにその薄っぺらい自信をひっくり返されて、今度は地面に這いつくばった自分が見下され笑われることの繰り返しで構成される惨めな人生だけが残りました。


 先生は岡山に戻ってきました。両親の暮らすマンションの近くに小さなアパートを借りて、青いアクアを買って、ユニクロを着て、そして缶コーヒーを飲んで暮らしています。採用試験を受けて、今年からこの学校で先生をやっています。ご存知のとおり、みんなが初めて担任するクラスでした。


 今年で30歳になります。何もない人生です。いや、訂正します。先生の性格の悪さ、頭の悪さ、そんないろんな、先生のダメなところのせいで、自分自身のせいで、人生という車のトランクに、先生は何かを残すことができませんでした。必死で走るそばから先生の荷物は次々と落ち、何も残りませんでした。


 最初に質量保存の法則の話をしました。まだ習っていないから分かりませんよね。先生は何を与えられてきたでしょう?何かを与えられたとして、それをまだ持っているでしょうか?そんな私に、みんなに偉そうに何かを教え、与える権利があるでしょうか?先生はいつも悩んで、また車の中で叫んでいました。


 でも、それでも先生も、みんなも、必死で生きてゆくしかないのです。誰にだって悪いところはあります。そのせいで人を傷つけ、また傷つけられることあるでしょう。先生がそうでした。おれは早稲田卒だ、東京から来たんだといつも人を見下し、嫌われてきました。それでも生きてゆくしかないのです。


 人生のあらゆるところに、あらゆる街に、不幸はみんなを殴るための棒を持って潜んでいますし、不幸に殴られたとき、だいたいの場合それは自分のせいだったりします。自分で招いた不幸に殴られ傷つくなんて!耐えられなくなって、死にたくなることもあると思います。それでも生きてゆくしかないのです。


 東京に出た先生に不幸があったように、地元に残り、駅前のマックで怪盗ロワイヤルの話をしながら氷を噛んでいた同級生たちにも不幸があったかもしれません。もしかすると袴を履いたヤンキーたちにも。もしかすると君たち自身にも。すべての人には、その人だけの見えない地獄があるものです。


 人の不幸を想像できる人になってください。先生はこんなこと言える立場にありません。先生にはそれができなくて、自分だけが苦しい人生を歩んでいて、人を見下す権利があると思っていたクソ野郎だからです。でも、それでも言いたいのです。母が母なりに私の未来を思い、ビートルズを聴かせたように。


 誰もが苦しみながら生きています。死なないでください。そして同じように苦しむ人たちを思い、ビートルズを聴かせてあげてください。私の母は父からモラハラを受けていました。短大卒のお前が何を偉そうに子供を教育しているのかと、よく馬鹿にされ、それでも彼女は、車でビートルズを流しました。


 人を思うことを恐れないでください。自分なんて、と思わないでください。年収何千万とか、フェラーリに乗っているとか、偉そうな人にも必ずその人だけの地獄の苦しみがあります。だからこそ強がっているのです。そんな人たちにも恐れず優しくしてあげてください。もちろん、明らかに弱っている人にも。


 みんなで生きましょう。死なず、死なせないようにしましょう。苦しみの中でこそ、他人の苦しみを思い、助け合いましょう。先生も、これから努力してゆきますから。お話は以上です。卒業おめでとう。