群を抜く存在になりたい

 群を抜く存在になりたい、目立ちたいという欲望「だけ」が前のめりに実装されてしまった物件が、いまどき「意識高い」「正しさ」を考えなしに身にまとうことがひとまず最短距離と考えてしまっているらしいこと、そのあたりの仕組みがうまく言語化されていず、既存の「政治」言語に覆われていること。

 衆目を集めて「正しさ」アピールができるアイテムをどれだけ身にまとわせられるか、が最優先の機能として調整されてしまっている物件が、政治や報道その他、いまどき大衆社会のありようと最も鋭くシンクロしてしまう/せざるを得ない場所にうっかり集中してしまう現象。

 それが「女性」という属性と重なってくると、さらに拗らせ具合が激しくなる。「女性」が群を抜く存在になること、というのは、つまり雇均法以降の本邦社会にとって、まさに「男女共同参画」的に等しく同じ土俵で勝負する/しなければならない、という約束ごととして君臨するようになっている分、それまでと違うストレスが「女性」属性の側にかかってきたわけで、それに対する対応や適応として、いかに「女性」属性を下駄として活用しながら、でも同時に「平等」に勝負している態をとりつつ「男女共同参画」という大文字の「正しさ」にも準拠してゆくか、という上演ゲームのようになってくる。事実、そうなってきている。

 「まんこ資本」「まんこ二毛作」といったむくつけなもの言いが、例によってTwitter世間では流通するようになっているが、言い得て妙ではある。なぜなら、アイドルであれタレントであれ芸能人であれAV女優であれ、はたまた政治家であれ文化人であれ、立ち位置や文脈その他は知らず、とにかく群を抜く存在になることが必須の使命となった以上、「女性」という属性を最前提に持つことでその「資本」を最大限に活用するよう立ち回ることは、市場的環境への合理的適応としてはひとまず正解になるわけで、そのメカニズムだけに従って世渡りするような「女性」が、たとえ悪目立ちにせよ群を抜く存在になってゆくこともまた、ある種の必然ではあるらしい。

 例によって柳田の「世相篇」で恐縮だが、そのような「群を抜く」存在は、それを支えるそれ以外のその他おおぜいのさまざまな意味での支持と支援があって初めてあり得るもので、と同時に、そうなり得る存在を支えて育ててゆくことと共に、それがうまくゆかなかった時、あるいは失意の状態に陥ったその後、いかにまた世間の側、その他おおぜいの懐へ復員させてゆくかについても、全く等しく手立てが講じられてなければならない。そして、それこそが世間一般その他おおぜいという「主体」の側に求められる資質であり、敢えて言うならあるべき民主的な社会における大事な条件になる――あの「世相篇」の後半、最終章に至る行論で彼が100年近く前に述べたことの〈リアル〉は、いまだからこそ、あらためて身にしみる。