「知的好奇心」のあり方

*1

 なお、ここでいう「学力が低い」とは、おそらく小学5年生くらいから算数や国語を理解していないが、AOなどで高等教育に進学した人たちのことです。義務教育終了までの内容を身につけている人のことを指していません。「義務教育の内容しっかりマスター」+「読書習慣あり」ならば、(理系は除く)中堅より下の短・大学では、クラスの中くらいの位置じゃないかしらと思う。

 この前提がすでに現実になっていることを、果してどれくらい本当に理解しているかどうか、というのは、いまどき「大学」についてのさまざまな能書きやもの言い、ご意見コメントの類に接していていつも感じる徒労感の源になっている。

 ただ、実際には「義務教育の内容しっかりマスター」でも「読書習慣なし」の学生ばかり。「あり」はみんな社会人入学の人。とにかく幼い頃からずっと読書習慣(ライトノベルでもOK)があれば、教科書頑張れば読めるし思考力も鍛えれば伸びるから、卒業する頃には見違えるようになる。そういう人たちが多いと最初の授業で感じたら「私はあなた方を評価するためにここにいるのではなくて、学びを手伝うためにここに立っています」と伝えることにしている。学生たちの表情が少し緩み、集中が高まる。

 大学なり何なり高等教育段階に至るまでの「学習習慣」(教育専門の人がたは割とこういう言い方をするような)がついていない、そんな物件がすでにあたりまえに眼前にやってきている、そういう現実を目の当たりにして、さてどうする、というのが、いまどき大学に新たに赴任してきた人がたの立ち往生のはじまり。それまで非常勤講師などやっていたようなポスドク、あるいは野良博士連ならまだしも、難儀なのは社会人からいきなり大学教員になったような「実務家系」と呼ばれる人がた。脳内の「大学」「大学生」像が昭和後期から平成初期あたりまでのそれで更新されていないか、あるいは自分の息子や娘についての、それも家庭の間尺での父親目線でしか見ていなかったイメージを足場にしか理解できないような物件。実務家経験があるんだから、企業や組織の部下や取引先などでそういういまどき若い衆世代のありように接する機会はあったはずと思うのだが、そこらも含めて実にこう見事なまでに眼前の実存、確かにそこに「いる」生身の存在についての理解の枠組みが固定されたまま、という事態は日々普通に出来する。

 社会人学生の人がたも基本同じだったりするのだが、ただ、それでも彼ら彼女らはそういうかつての「大学」「大学生」のイメージのまま「学び」に来ているわけで、意識せぬままそれら「大学生」身ぶりをなぞってくれたりもする分、いまどき若い衆の学生連にとってはある種の雛型、生体標本として見ることもできるし、また実際、そういう効用はある。少なくとも社会人学生と現役学生とが同じ教室で同じ講義を受講できるような環境においては。

 何かに興味や関心がある、好奇心を持てる、ということ自体、どうやらすでにある種の特権みたいになっているフシも。前向きに何かに興味を示すことができる程度に、そういう興味を持つ自分に対する肯定感(雑な言い方だが)が一定程度持てているということになるらしく、逆にあらゆる面でそのような好奇心の類を示せないような若い衆は、かつてならふてくされたりツッパったり(これも死語か)している客気まんまんな物件も含めてあり得たものが、いまではそのような鋭角の自意識の表現などまず見られなくなり、単に周囲の刺戟に対して防御的に閉じている、そうせざるを得ないような無機的で漠然とした生身の印象になっている。*2

 多分、話していることの前提としての知識がなくて「何を言っているのか分からない」になっているという事のような気がします。知らないことを知るのは快という意識はあると思うのですが、略式を多々使用するコンサルの発表聞いているみたいに訳が分からないのではないかなぁ。

 知識がない、それは情報を持っていないと言い換えてもひとまずいいようなものだろうが、仮にそれらを持てていたとしても、彼らはおそらく「何を言っているのかわからない」のまま変わらないだろう。というのは、持っている知識や情報を相互につなげたり、あるいは新たに眼にし耳にした知識や情報と関連づけたりすること自体にあらかじめ距離を置いて踏み出せないまま、という感じなのだ。単に知識や情報がたまたま貯め込まれたとしても、それが身の裡に定着しないで容易に手放されてしまうらしく、それはクラウドにじきに記憶させてしまうから手もとのローカルデバイスに置いておく必要がなくなっている昨今の情報環境とも、どこかでシンクロしている症状かも知れない。

*1:前々から触れている「わかる/わからない」問題関連かと。いまどき若い衆世代にとっての「わかる」とは何か、のお題。

*2:このへん男女差はあるように感じる。ここで言うのは概ね男の場合で、女になるとデタッチメントの表現がもう少し違うあらわれかたをしているように思う。このへんはまた別途考えねばならないことなのだが。

「バブル」考・メモ

 この辺の記述を見ても、日本の地価高騰をバブルではないかと分析するニュアンスでバブルという言葉が出ているわけだな。
ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90…


整理すると

  ・バブル景気という呼称は当時からあった
  ・当時はバブルが崩壊していなかったので崩壊という結果を
  先取りした悲観的呼称だった
  ・当時の「バブル景気」には
  今のような「イケイケウハウハ」的なイメージはなかった

 この辺りのメタ的な事情がややこしさの原因だな。


 この辺うろ覚えだが

  ・「バブル」という言葉が盛んに報道されるようになったのは、
  実体経済に合わせた落とし所を探る
  ソフトランディング・ハードランディングが論じられた辺り

というところかな。


そして

  ・「バブル景気」という呼称が後代に生まれたというのは、
  「バブルか否かは実際に崩壊するまで決定づけられない」という
  定義から派生した誤解

というのが落とし所かな。


 史実としては、「この異常な資産運用の投機熱と地価高騰はバブル崩壊の予兆なのではないか」という懸念として「バブル景気」という表現は当時からあった。そして実際に政策として崩壊を回避できなかったので定義上でも「バブル景気」として確定した、という順序か。


 そして

  ・日本では一般的に「バブル」という呼称で連想されるのは、
  特定の時代性において「バブル崩壊への懸念」という形で生まれた
  「バブル景気」と表現される時代の極端なムード

ということで、元々の「バブル経済」という用語の意味とズレが生じているわけだね。


 そもそも「バブル」の語源が南海泡沫事件だとするなら、「いわゆるバブル」みたいなイケイケウハウハみたいなニュアンスの言葉じゃないんだよな(笑)。そりゃこんだけ事情が拗れていれば、定義から遡って類推しても正解にはたどり着かないよな。

労働者とモラルの現在


 「労働者」という定義のしかた/されかたが、おそらくもう世間一般その他おおぜいの意識にとって切実なものでなくなってしまっていて、それはおそらくその「労働」というもの言いに重心の大方がかかっていたがゆえの色褪せ具合なのだと思っている。

 若い衆にひとつ話ですることのひとつに、「労働者」の「労働」とは肉体労働であり、おのが身体を酷使して生身の筋肉をきしませ、汗と埃と油にまれて「真っ黒になって」働くことが自明の前提だった、というのがある。ホワイトカラーとブルーカラーという対比などもからめて、でもある時期まで背広着て机に向かって書類をいじる、いわゆるpaperworkは「労働」とは見做されていなかった、ということあたりまでも含めての説明。

 いわゆる「接客」業というのが「労働」の範疇に入るようになっていった過程、というのも考えてみる必要があるのだろう、そもそものその「接客」というもの言いがあたりまえに成立して使われるようになっていった過程も含めて。社会的に表立って認知されていないような仕事として、基本的にそれら「接客」というのはあったわけで、マチの特殊な環境で成り立っていたような正規の水商売(妙な言い方だが)や大店の料亭や割烹などの類を別としたら、一般的にはそのような商売に携わる側の、身内の人手を割いて担当するようなものが基本的な形だったはずだ。

 何度か触れてきたと思うが、「外食産業」というもの言いについても、その「外食」自体が言葉として成り立っていった後に、そこに「産業」などという重厚長大なしっぽが堂々くっつくようになったのは概ね80年前後のことらしく、そうなるとその「外食」の語感の裡にはらまれていたはずの「接客」という仕事にしてもまた、「産業」の重厚長大に否応なく従属させられてゆくようになってゆく。そういう重厚長大、別な言い方をするなら大文字抽象概念によってカバーされる領域が一気に身の丈を越えてしまう敷居を無視して「接客」もまた、それら「労働」だの「経済」だのといった大きなことば、漠然としたもの言いの側に奪われていったのだろう。

 冒頭のTweetで語られているのは「サイゼリヤ」「呑み屋」「蕎麦屋」「ファストフード」であり、つまりいずれもそういう「外食産業」の「接客」という局面においての「労働者」の「モラル」が問題にされているというあたりの事情は、これらのTweetをした側も、そしてそれを素材にあれこれ吐き出している側も、共にあまり意識されていないように見える。「消費者」としてそれら「接客」という局面で「外食産業」に従事する「労働者」の立ち居振る舞い言動その他を論評する、それが一直線に「労働者」の「モラル」としてだけ語られてゆく現状自体が、ある意味その「労働」の内実がかくも偏った(と敢えて言っておく)、萎びたものになっていることを裏返しに証明しているように思ってしまうのは、例によって老害化石絶滅品種脳ゆえなのだろうか。

ファクトハラスメント・考

togetter.com

 「ファクトハラスメント」というのは、つまり「知性ハラスメント」「教養ハラスメント」「学問ハラスメント」「学校的正しさハラスメント」(以下随意)ってことなんでね?「専門家」なり「プロ」なり「その道の当事者」なり、そういう人がたの知識や経験に基づいた情報に対する不信感や違和感の蓄積。と同時に、「そういう人がた」の身ぶりやもの言いから社会的立ち位置などまで含めての嫌悪感も併せ技になっとる感。

 「そういう人がた」の発する知識や情報を「そういう人がた」の立ち位置や身ぶり介して「説得」されること自体への不信感や嫌悪感。「ウエメセ」などのもの言いを支えている気分の地盤とも共通している印象。ある種の世間一般その他おおぜいのいまどき気分(「一般意志」wてか?)の公約数みたいなところがありそうな。かつての久米宏などがうっかりフタ開けた「わかりやすいインテリ」的キャラ介して流布されていった「社会や世界についての情報」話法・文法が一般化・通俗化していった果ての、世間一般その他おおぜいレベルでの情報の取捨選択リテラシーの変貌との関わり、とかいろいろと。

 情報それ自体の真偽や中身、質などでなく、情報がどのようなキャラ、どのような経路介して自分の眼前に存在しているか、という部分も含めての価値判断が、「余暇」「娯楽」系の仕切りにおいてのみならず、全方向日常四六時中モードであたりまえになっているらしく。そういうモードからは「専門家」「プロ」といった仕切りもまた、無力化されているわけで。

組織の破綻・雑感

 「規則通りに」「前例に従って」「決まったことを」こなしてゆく、ということだけを日々の仕事の習い性にしてしまっていると、そもそも「何のために」その「規則」「前例」「決まり」が作られたのか、ということを全く考える力もそのやり方も忘れてしまうものらしくて、な……「組織」なり「会社」なりが見た目それなりに回っているように見えていればいるほど、そういうビョーキの症状は無自覚なまま深刻化していったるもの、なんだわな。

 日々の売上げや営業成績、同業他社とのしのぎあいのさまなどが日常的に「見える」ような業界ならばまだしも、扱うものがカタチも見えにくく具体性からも遠い場合はなおのこと、そういう危機や破綻の気配が察知しない仕組みが知らぬ間にできあがっていたりするわけで、な。

 公務員でもないのに意識も気分も手癖も仕事の手順も、みんな公務員以上に公務員しぐさの標本みたいになって、それはそれで安楽らしいからすっかり身にもついて、内輪の現実だけが世界の全てになって決定的な破綻、カタストロフィがある日ある朝突然に、という、な。

 東芝でも日産でも日立でもサンヨーでもどこでも、ここ10年内外で(゚Д゚)ハァ?な醜態をさらしちまったような本邦ポンニチ「一流」企業や組織のありようってのは、岡目八目の大雑把で言うならどれもみな横並びにそういうワヤ、そういう煮崩れ方をそれまで長年かけて日常化してきとったんだろうなぁ、と。

「もう決まったことだから」
「上が決めたことだから」
「どうせ言ってもムダだから」
「変えようとしても結局損するだけだから」

 こういうもの言いが1日に何回も実際に耳にされ、あるいは脳内に流れるようになっとったら、おそらくそれはもう手遅れのシルシ、だとおも。

 「冷笑」というのを悪い、邪悪な意味あいで使いたいならば、こういう症状に唯々諾々と従うだけになっている現在をこそ、正しく「冷笑系」と読んで嘲り嗤っていいようなもの、なのだと想う。

レジと民度・メモ

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 終始無言で威圧的でお釣りやレシートを奪う様に取って去っていく客が本当に多くてびっくりする。店員って人間だよ?? 日本人の民度ってここまで低いのかよって日々げんなりしてる。別に無言でも良いんだよ。ぺこっと会釈したり問いかけに身振り手振りで答えたりしてくれる人はちっとも嫌な感じしないし。ただ、上記の態度は人として最低限のラインだよね。


 レジ打つ前に「お願いします」。ポイントカード持ってますかとかの店員の問いかけに「ないです」とかってちゃんと答える。最後お釣り渡されたら「ありがとうございます」。こんな極当たり前の事を出来る人って客の1割くらいしかいないんだよね。


 別に店員を敬えなんて思ってないけどさ。人として接する時の最低限のマナーってあるじゃない。レジ打ちに限らず対店員になった時にその最低限のマナーが崩壊する日本人ってきっとものすごく多いんだろうね。店員は人間だから、日本国民全員店員への態度を改めるべきだよ。

 まぁ、そのうちに、ほとんどがセルフレジになるだろうけどなぁ。

 そんなものです。というのも、その状況は私が(実体験から)知る限り30年前と変わってないから……(本当はもっと前からでしょうね)。そしてそれは地域と服装で一定のパターンがあるみたいです(もちろん、例外多数)。なので働く地域を変えると改善すること多し(根本的には解決しないけど)。

 お疲れ様です。私もレジしている者です。イヤホンしたままマスクしたまま小声で注文する人も多いですね。店員が間違ったら面倒くさそうに首を振る。なにを要求しているか、最低限のコミュニケーション取らないと。キミのアタマの中が私に見えると思うのか? と思いますよ😥

 レジの人ってどこに行っても接遇に差がない。他の店員さんがアレでもレジの人接客、悪口あまり聞かない。

*1:コンビニの普及によって、レジ係が対面で向き合う局面が日常的になったこともあるのだろう、接客という意味でのレジ係の立ち居振る舞いが、実際にその仕事にあたっている側からの目線や証言も含めて、世間一般その他おおぜいの意識の銀幕に投映されることが増えてきたと思う。そのひとつの例としても。

社会のしくみ

https://twitter.com/karamazov012/status/1216328098565640193

そしてその「特権階級」になるには、できれば旧帝大、最低でもマー関や国立大に入るのが一番の最短ルートなんすよね。まあそっから就活を戦い抜かないといけないんですけど。。。— カラマゾフ (@karamazov012) 2020年1月12日

ちなみに、「Fランでも人間性があれば大企業に!」みたいなの、
大企業という「体制側・権力側」に取り入る過程において、「Fランでも人間性!」みたいな「反体制・無頼」を気取ってる時点でかなりズレてるとも思う。大企業という王道をいきたいなら学歴という王道をきわめないと。

だけど、社会全体でみたら、大企業正社員や公務員も上級国民や特権階級ではなくて、こっちも割と捨て駒に近くて、将棋の駒の歩がバイトや派遣なら、公務員や大企業正社員は香車でしかないというね。ホンマの特権階級の金や銀は歩の立ち位置からは、姿さえ見せない。