フルスペックの町、の記憶

フルスペックの町が消えていく時、まず玩具屋が消えるんだな。生活必需品じゃないことに加えて、子供向けなので。町が消える、町が再生産されない=子供がいないってことだから。

 わかるー。旅をしてると、若い頃に通ってたお店、デパートの、サブカル的なコーナーが、今行ったら消えてて驚く。ゲームコーナーや玩具店、本屋。跡地には洋服屋さんや100均が入ってたりする。ああ、青春の頃の思い出がまたひとつ消えていく、もう来る意味が無いな、と物悲しい気持ちになるよ。

ハローマックが、百貨店が、玩具を売る電機屋が、駆逐しましたね。
あと、真の限界集落には葬儀屋すらないですよ。
タバコか酒を扱う商店が最後の砦。

 昭和ノスタルジー的な意味あいでの感慨は感慨として、ちょっと気になるのは、ここで言われているような「フルスペックの街」のイメージはさて、どんなものなのだろう。

 おもちゃ屋、デパートのサブカル的コーナー(具体的には示されていないが、言いたいことは何となくわからんでもない)、ゲームコーナー、本屋……あげられている限りでは、いわゆる子どもないしはミドルティーンまで向けの消費文化を商品として供給する端末群、といったところが、その「フルスペック」イメージの中核を示すものなのだろうか。

 小さくても鉄道の駅があり、駅前に商店がちらほら並んで、時にはもう少しまとまった商店街的なものが形成されていて、といった基本的な風景は、それこそ戦前、柳田國男朝日新聞論説委員だった頃のコラム(と当時は言うとらんかったと思うが)で、駅に花を飾るようにすることの意義を説いたあたりからでも、本邦の地方にも見られるようになっていたものだろうし、戦後高度経済成長期の「わたしたちのまち」的な小学生向け「社会」の副読本などにまで揺曳していた、本邦的な「マチ」のある定型イメージになっていたように思う。

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 だが、ここで言われるような「フルスペックの町」のその「フルスペック」に、それら人文地理的な景観みたいなものはおそらく薄い。鳥瞰とまでゆかずとも、俯瞰的な全体像といったもの、それこそ「地域」といったくくりで地図の上に描かれることをまず想定されるようなものではないように思う。

 ならば、何か。そこのマチに住み、日々生きているのは同じでも、それらを単なる装置として「利用」「活用」している受動的立場、「消費者」的な「市民」意識を介したものではないか。子ども目線での「お店やさんごっこ」のような、消費者として日々利用・活用する店舗の横並びとしての「マチ」というか、いずれそのような悪い意味で散文的な、あるいは通りすがりの旅行者や観光客的な、フラットで平面的なもののように感じる。

 ただし、それでもなお、なのだろう、そのような「フルスペック」のありさまがかつての記憶として、消費者としての住民目線から「栄えていた」証左としていま、振り返られるようになっていることは、だからこそ余計に切ないものが宿っている。人文地理的な景観としての、地図の上に俯瞰的に描き出され得るマチ、のイメージはおそらくそうは変わっていないのだとしても、そこに生きて日々消費者市民として受動的に体感しているマチの肌ざわりは、間違いなくもうすでにかつての「栄えていた」頃のそれではなくなっている。そういう意味での〈リアル〉の表現として、この「フルスペックの町」という言い方の背後にある何らかの感傷めいた感覚は、見逃してはならないのだろう。

 ここで個々にあげられている「お店やさん」は、もしもそれが進出してきたのだとしたら、ほとんど全てその後ショッピングモール的なたてつけに収容されていったはずだ。そしてそれでそのマチの日常の暮らしは「便利になった」と感じられるだろうし、それは「うちのマチも良くなった」とまずは素朴に思うようなものになったはずだ。

 けれども、そのモールに日々の生活の行動半径でそのままアクセスできるとは限らない。多くの場合、バスや自家用車を介した「郊外」にそれはあるはずだし、鉄道で行けるとしても自分のマチの小さな駅から時間をそれなりにかけて「大きなマチ」に出かけてゆかねばならないようなものだろう。路面店のささやかな「お店やさん」たちがそれぞれ担っていた消費の役割は、それらショッピングモールに集約、収納されてパッケージとなり、そこに出かけること自体が仮想の新しいマチ、消費にだけ特化された空間という意味で「栄えている」感覚を与えてくれるものになっているだろう。人文地理的な景観の裡にあった消費の役割が、それだけ抜き出されて人文地理的な景観としてのマチの外側に持ってゆかれる。そのことによって、人文地理的な景観としてのマチは、本来そこにはらまれているべきものでもあった消費というモメントを失い、単なる抜け殻のように感じられるようになる。

 その抜け殻感覚、消費者として地元の〈いま・ここ〉に棲息できなくなっていることの表現としての「フルスペックの町が消えていく」。地図の上での、景観としてのマチは大枠変わらないままでも、それがかけがえのない〈いま・ここ〉であるための条件≒「スペック」であったはずの消費のモメントが、すでに「地元」「地域」の〈いま・ここ〉から摘出されて、外部の装置として接続されて初めて可能になっている状態。それは衣食住に直接関わる領域のみならずそれ以外の領域、それこそ娯楽や趣味に関する領域においてより一層、深刻な欠落感や喪失感を体感させるものになっているらしい。 

アニメと「楽園」環境・メモ

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 それこそ「けいおん!」とか最近の「映像研……」とか、ああいう「高校」(という理想の楽園環境)のサークル的関係を鉄板の下地にした創作類見てると、ああ、ああいう世界が少しでも〈リアル〉に感じられるような若い衆自体、実はもはや相当いろいろ恵まれた上澄みなのかもしれんなぁ、と思ったりする。

 ああいうの、それこそ「リア充」が自明の前提で、それなりに自己肯定感や何らかの自信やらが備わった若い衆がまわり含めてある程度あたりまえ、な環境でないと本当には楽しめないところあるんじゃないだろうか、とかいろいろと……

 うまく整理できんけれども、たとえばいわゆる「おたく」的心性(実はこういう言い方じゃぼやけちまいそうだがとりあえず)にすでにあらかじめ埋め込まれている「リア充的なるもの」が要素として介在しないと、ああいう作品世界の〈リアル〉は実はうまく響いてこないんじゃないか、とか、な。「リア充」という〈それ以外〉が存在していて、初めて作品世界としての〈リアル〉もこちら側に切実なものになる。つまり、自分たちの「おたく」的ありようから明らかに異なる属性の存在としての「リア充」を鏡として置いて初めて、その「おたく」的ありようにとっての「楽園」は光り輝くものとして「おはなし」世界での〈リアル〉を獲得することができる、と。

 それに対して昨今は、むしろそのような「リア充」という〈それ以外〉な鏡なり反響板なりをすでに必要としない、それこそあの「君の名は」みたいな作品のその世界の方が、ネガな意味での「おたく」っぽい〈リアル〉というか、その「リア充的なるもの」が要素として介在しなくても成り立つ構造があったりせんのだろうか、とかも含めていろいろと要審議継続案件。

 ひとつ、いまの時点で書き留めておかねばならないと思うこと。自分が「君の名は」に対して拭い難く抱いた「いや~な感じ」ってのは、作品の世界が商品として提示されてゆく場合に必然的にまつわってくるはずの開かれ方に乏しい、この場合だとそういう「リア充的なるもの」が要素として創る側に内在化されている気配が薄いってあたりに関わっていたような気がする、ということ。〈それ以外〉を必要としない、そのような異物を鏡として初めて〈リアル〉になるこちら側≒「自分」という構造そのものが、すでに眼前の現実に組み込まれているかも知れないことも含めて。

 古い人間なんでずれてるかもしれませんが、以前先生が指摘されてたように、オタクになるには一定の恒産が必要という前提はまだ生きてるのかもしれませんね。ネットのおかげで相当敷居が低くなったとは言え。新海監督は『君の名は』以前は、もっとどストレートにオタクの妄想映画作ってたんですが、川村元気がコントロールしてキャラクターを快活に作り替え、デートムービーとして見られるものになったようです。今や親世代や普通の子も、薄く広くオタク文化で育ってるから。ただ、次作『天気の子』は、貧困の拡がりを意識した内容だったみたいですね(観てないんですが)。『けいおん』なんかもけいおんはそれ自体がオタクの桃源郷みたいな世界観でなかなかリアリティは生みにくいですが、映像研は浅草氏だけが自分の妄想した世界とリアルをいったり来たりするオタク的心性持ってることでオタクがリアリティを持ってると思います🙄

ワシけいおん!好きだったけど、あれ盆栽眺めているイメージなんだよね、ワシ。非現実や人工を楽しむ、的な?

 『五等分の花嫁』というアニメを見終えたところなんですが、途中に出てきた林間学校の話が切なかったです。私には無かった青春でした。逆にもっともっと若い頃はこういうのは自分が「これから」取り戻すんだ!って憧れられたんですけれども。

 アニメの主人公たちの家が立派すぎて、こんなもん見てて面白いのか?とはよく思います。

 ほんとそれです。家が立派だったり高校生が立派なマンションで一人(二人)暮らししてたり。女子無駄も青ブタもクズの本懐も俺ガイルもこいつらどんな家庭なんだと。

*1:「君の名は」問題を下敷きにした違和感の来歴について、という感じか。備忘的に。

大学受験の記憶

 なんで自分は東京の大学に行こうと思ったのか、40年以上前のこととは言え、何度改めて思い返してみても特段の理由があったとは思えん、むかしも今も。

 大学に行くもの、というのは何となくそんなものだと思っていた程度だったけれども、浪人したら職人にする、とオヤジが言うてて、多寡くくってたらある日知り合いの大工の親方連れてきて話し込んでるのを見て、あ、やべぇ、本気だったわ、と思ってそれからにわかに発心して、という話は前にもしたかと。

 にしても、家の裏手がすでに大学だったし、家から通える大学ならいくらでも選択肢はあり得たはずだが、なんでいきなり「東京」と意識定めたものだったのか。やはり「大学生」は「家を出るもの」という定式がいつしかどこかに刷り込まれていたのか。どう考えてもそうとしか思えんのだけれども。

 生まれて何年かとは言え、一時期は東京にいたわけだから、全く見知らぬ土地というわけでもなかった分、どこかでそういう「里帰り」的な意識も少しはあったのかも知れんけれども、だからと言ってありがちな「憧れ」とか「立身出世」とかそういう感覚も実はあまりなかったのもまた確かだと思う。

 普通科だったから♂だと進学希望は半分以上はいたんじゃないか。で、その場合狙うのは京阪神間の大学になるわけで、「東京」狙うのはまずいなかったし、何より高校の側がそんなことは想定すらしていず、入試関連の資料も地元以外はほぼ皆無。まして国公立でない私学となると初手から外道扱いだった。

 理数系がまるでダメで英語も苦手、それで大学行きたいなんざ私大文系3教科一択なわけで、進路指導の教師もまともに相手してくれるはずもなく、手探りで我流の受験対策をわけわからんながら高3の夏休みに入るあたりからあわててジタバタやり始めた。

 進路指導で受験対策は国公立大しか想定していず、それもせいぜい夏休みの補習みたいな程度。私大は「滑り止め」以上でも以下でもなく、敢えてそこに特化した対策など意識の外。当時のとりたてて進学校と目されるほどでもない県立高校の進路指導の意識というのは概ねそんなもん、だったようだ。

 自前で情報収集するしかないとは言え、当時のことゆえ赤本開いて過去問精査と、あとはせいぜい通信教育や模試ぐらい。夏休みは京都の予備校(駿台だったか)の夏期講習に潜り込んだりもしてみたが人の多さに圧倒されただけ。ただとにかく私大文系3教科特化の勉強だけは見よう見真似で続けてはみていた。

 センター試験どころか共通一次も導入以前だったが、浪人したら共通一次受けなきゃならなくなるという恐怖もあり結構必死ではあった。そのせいか、理数加えた国公立5教科だと学内試験でも学年300人程度の200番台確定のワヤだったのが、私立文系3教科特化になると夏休み明けに一気にふたケタ台前半に。

 現金なもので結果が出始めると調子もこくわけで、通信教育にみならず各種模試なども武者修行で割と受けるようになって「全国区」のものさしを意識するようにもなる。A判定B判定だの何だのという受験生用語もその頃ようやく知るようになった。その程度に「地方」だったんだと思う。

 「井の中の蛙」じゃないけれども、情報がとにかく今とは比較にならないくらい少なかった時代、でもだからこそあれこれジタバタしながら試してみることに集中できたところはあったのかも知れん、とはおも。ものを知らない、というのは文脈によっては確かに強みになり得るものなのかも知れんなぁ、とも。

 それでも身近なものさしは学内の阪大京大狙っていたアタマのいい連中の模試成績。連中は5教科、こちとら3教科だが、私大文系3教科で連中と張り合えるくらいまでなれれば、東京の大学でも何とかケンカにはなるんじゃないか程度の目算。でも実際、最後までアテになったのは彼らの成績との距離感だった。

日本経済の真の姿、と、それを語るもの言い・メモ

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 Twitterには「経済」について一家言ある御仁が多い。少なくとも自分のTLでさえも、それなりの比率でそういう垢が存在している。自分自身いわゆる経済関連についてはほぼシロウト並みの知見や見識しか持っていない自覚があるので、そういう人がたの披瀝してくれる見解や解釈、ものの見方などには、たとえ断片的な印象にすぎないものであっても、基本的にまず傾聴してみることにしている。

 それは、自前で何かそういう経済関連の解説本を手にしたり、あれこれあさってみることとは別に、素朴に耳学問、それこそ最も豊かな意味での床屋政談ならぬ電網喫煙室か休憩所みたいな感じで、はあ、そんなものか、なるほどなぁ、とそれなりに得心して自分の肥やしにできるものならしてみようと思う、良くも悪くもそんな感じであり、その程度ではあるのだ、とりあえずのところは。

 基本的に自民党は保守の色が濃いですから、製造業などの産業や農業等を大きく変化させる事を嫌ったのは間違いないと思います。日本のバブル崩壊後の処理がリーマンショック後の欧米の処理と違ったのは、負債を真面目に消し込んだか金融のマネーで帳簿から消したかの違いです。


 実際、多くの外国に比べて平均賃金が上がっていないというのは、欧米やアジア新興国等では金融やITなどの職に特化してその従事者が高給を得る代わりに、それに就けない者は失業して生活保護で生きるからです。ですので平均所得が上がるのは当然で、全体を見る必要があるのです。


 国全体のGDPを見ても判るように、日本は失われた20年(30年)という時間を過ごしながら、実はGDPが減っていません。其れどころか絶好調であった筈の殆どの国は日本を追い越せず、中国は20年余り、GDPの水増しが行われていた為、本来のGDPは約半分なのです。


 逆に日本は本来ならGDPに加えられる筈の研究開発費等を資産に計上していなかった為、GDPの伸び率が低く抑えられていたのですね。弊社の資産では日本の本体のGDPは8兆ドルを超えます。逆に中国は6兆ドルに届きません。


 旧民主党の経済政策はコンサルタント的な時点では正しい方針でした。ただ、其れをきちんと実行した場合、今の英国や欧州諸国のように金融とIT(然もソフトウェアだけ)に特化した歪な経済構造になっていたでしょう。特に災害に悩まされる日本では無理な話です。


 今のコロナ禍を見ても判るように、日本の経済構造の強さは「効率を極限化させない」事にあります。生産性を極大化させるという事は平時における収益を最大化しますが、非常時に脆くなるのです。其れが社会の安定を生み出す為、日本は非常に層の厚い労働環境を持っているのです。


 今回のコロナ禍で多くの欧米の企業が倒産したり失業が膨れ上がっているのを見て、多くの私の顧客や取引相手が泣きついてきました。地域に密着して、地道な製造業を含む地場産業を育てる私の投資の仕方を笑った自分が馬鹿だったと。

 おそらくは、株や投資といった方面に明るく、またかなりの確率でそのような仕事に実際従事しとらすような人がたが、TLで「経済」を語る垢には多いようにも感じる。いわゆるある時期までのあたりまえとして考えられていたような、一般教養的な経済学のたてつけでの大風呂敷な議論の水準ではなく、金融経済の方向から見た最もアクティヴで鉄火場的な動きをしている現場から見た「経済」。そのような枠組みを実装した上で眼前の現実、〈いま・ここ〉のありようをスキャンしてゆくと当然、こちとら旧世代的なアイピースを介したそれとはかなり異なる「現在」が見えるものらしい。

 そして、そのような見え方をする「現在」の手ざわりを足場にしながら、個別具体の〈リアル〉の方へともう一度合焦してゆく。その振幅とそれを可能にしている〈知〉の運動能力が、こちとら旧世代がなけなしの語彙と甲羅を経た分いささか動きの鈍くなった手持ちの道具を懸命に駆使しながら追随しようとしている個別具体の現実を介したのとはまた少し違う、ひと皮むけたかのようなたたずまいの〈リアル〉を現前させてくれたりもする。

 愚かな話です。誰が自分達の食べる物を作り、流通させているのか。誰もその事を考えず、「代わりの労働者は幾らでもいる」と考えていたのですよ。掃除業者に感謝を言う私を馬鹿にしていた資産家は、その地域の公共サービスが停止してゴミに塗れて食中毒に罹りました。


 製造業を守り、雇用を守る努力をするという事は欧米の企業が東欧諸国や中国等に移転した安い製品との競争をするという道でした。欧米諸国が安い労働と製品を高付加価値の金融とITで得た利益で買い漁るのに比べて、日本は製造と消費を内需で回すという経済だからです。


 多くの人の目には其れが停滞に映り、華やかな金融やITの世界に乗り遅れた技術後進国のように見えたのでしょう。ですが私の目には今の日本の姿は鍛え抜かれた鋼の銘刀に、欧米等の国々はメッキが剥がれて錆びた刀身が剥き出しになったなまくらに映ります。

 「日本すごい」「日本すばらしい」的な自己満足言説に対する揶揄や軽侮の論調も、いわゆる良心的なリベラル陣営方面からいくらでも出てきていたし、またそのように反射的に感じてしまう違和感については多少なりともわからないではないこちとらのような不信心者にしても、単にその字ヅラやもの言いの調子だけでなく、先に触れたような〈知〉の脚力、振幅を支える運動能力を駆使した上での「評価」の言説には、ことの真偽やその程度は判定できないまでも、ある説得力と信頼感みたいなものは素直に感じざるを得ない気がする。たとえ、それがもしかしたらいまどきのいわゆるコンサルタント的なセールストークの最新型の一環であったかもしれないにせよ。

 皮肉な事に、東日本大震災という未曾有の災害が、その真の姿を映し出したのでしょう。当たり前の事が、ものが、日常が本当は尊いものである事。それを生み出している人々や運び、人に渡す人達。平時でなくなった時に初めて気付かされた事は少なくなかったでしょう。其れが今の自民党の支持に繋がり、自民党も其れをしっかりと受け止めていると思います。

地域創生の現場・メモ

 でも異世界から転生でもしてないと「国政レベルの失敗を、地方創生って名目で押し付けられてるだけですよね?」「限界集落の調査に大学から来られた?面白い。限界大学から限界教授がやってくるなんて」とか人に向けて喋ったりできないよな。

地域活性化プロジェクトの敗戦処理投手をお願いされても困るんですよね」

「地域地域とおっしゃるが、親のスネのようにかじって、もう何もなくなったのがあなた方が仰る地域なんですよ」

「フィールドワークに行ったら白石島の原住民に酷いことを言われたのだが」と、視点を変えて書くとオブラートにくるむことが可能なのではないか。不可能か。

「ボクには原住民属性があるから、少々酷いことを言っても許容されることがある。これがボクのチートスキルだ」

 ショボいな。

家の成仏

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 家もまた、成仏したよ、という知らせをしてくれるもの、なのかな……

 穏やかに晴れた、おそらくは初夏か初秋くらいの感じの日で、近所の人がたなども向かいの家に集っていて、ぬこやわんこの姿はなかったけれども、残ったガラクタの類がまだあることに、あれはば~さん(人間の)なのか、案外残ったまんまでいるものなんやね~、的な呑気なことを後ろ姿で言うたりしてた。

 育った家は震災で跡形もなく崩壊したし、その前に住んでた家もいつどういう風になくなったのか全く知る由もなく、同じく震災でかなりやられたと聞いて以降、当時を思い起こすよすがはカケラもなくなっているし、生まれたアパートやその後の社宅に至ってはそんなもの残っているはずもなく。

 ひとり暮らしをしていた頃のアパートの類も全部、きれいに建て替わっているか、跡形もなくなっているはずで、そういう有為転変はほんとに自分に関する限り、見事なまでに一貫している。

 墓も遠いところにあるからヘタすりゃこの先、無縁墓になりそうだし、親戚の類も父方は残っているのはひとりだけ、これも遠くにいてつきあいなし、母方も代が変わっているし、何よりこちらも日常的なつきあいはほぼなくなっているから、「いなか」とか「実家」的なしがらみはなくなっている、と。

*1:夢、を見た。妙に鮮明な夢だった。あまり夢を見ない方なので、余計に印象が強かった。そして、気がついた。ちょうど一年前の今日、だった。そのことについての、備忘的断片。

「わかる」と、勉強できる、の間

 これはマジで、アタマノヨサが普通の子の勉強できるできないの分岐点って「話を聞いてすぐにわからないとき、わからないことを自認し、わからないことに耐えられるか」だと思うのよね


 できない子になってく子って、その場で全て理解し切らないと「もうわかんない無理」ってなるし、だからこそ全部パタナライズ・マニュアライズしてもらって、それに従ったら「なんか知らんけど問題が解けた」みたいな状態を欲しがる


 要は考えて理解しようとするという行為って通常苦痛であり、通常それを避けて点数取れるようにしてほしがるんですよね
ダイエットしたいけど運動したくないみたいなのと同じ


 んでここからはお気持ちの愚痴だけど、こういう「わかんないけど考えてみる」を苦痛に思わないためにはどうすればいいかって、幼少期の教育しかないんですよね


 小学校でいかに「実は整備された土俵で放り出されて考えさせられる」経験がどれだけあるか


 それが一方今は正に先に挙げたできない子を量産する教育がなされてて、「授業その場で全て理解させる」ことを至上とする謎の価値観と「理解したか否か」をテストの点のみで評価する浅薄な基準で、正に全手順化型のオーバーコーチングがされてる


 幼少でこういうことばっかしてたら、その子がもし頭の回転の速い子なら大学受験ぐらいまでは難なくその場で理解できちゃったりするけど、そうでない子がどこかで「その場でわからない」になったときに「わからないことを考えてみる」経験がないせいで、人間16歳程度にもなって初めて出会う事柄には耐性なんてあるわけないんで、正に先に挙げた「考えるのが苦痛」状態に陥って完全にドロップアウトしちゃうんですよね


 だからこそみはじとか掛順とかっていう「概念を無視した手順化指導」ってのはアカンわけなんだけど…この辺のことって多分中高生を指導したことないとわからないんじゃないですかね…


 だからこそ小学教員にはせめて高校ぐらいまでの内容は押さえてて欲しいし、つまりどこでどういう考え方をすると高校内容のどこで詰まるのかとかがある程度わかってて欲しいし、そういう意味でのセンター7割とかって話なわけだが…


 まあしかし皮肉なのが、これを見ても多分小学教育脳の人間は「それは高校の内容をその場で理解()させられない高校教師の技量の問題!」ってなる(仕方ない、そういう価値観をブラックな環境で日夜叩き込まれてるんだからそうならざるを得ない。いわば洗脳である。)だろうしまあ恐らく響かないんだな