「コンテンツ」は「愛玩」できるか

 アマゾンプライムNetflix、さらにはキンドルなど、映像画像テキスト音声を問わず、いずれ「コンテンツ」をweb介したサービスによって自由自在に楽しむことができる環境は、確かに昨今急速に本邦の情報環境でも整備されてきている。

 映画がオンデマンドで観ることができる、というのはweb介した配信サービスとしては別に珍しくもないが、わずかな課金だけで手間いらずに観られる本数がケタ違いに多いのは確かに最初、衝撃的ではあった。キンドル電子書籍自体に拒否感が強いもので利用していないけれども、それさえクリアできる向きならこれもまた、Netflixのような衝撃を与えるサービスになっているだろうことはわかる。映像であれ音声であれテキストであれ、デジタル環境にコンバートされたそれら情報≒データは「コンテンツ」と称され、いずれ平等の「便利さ」によってサービス提供される資源となってゆく。そういう時代、そういう情報環境になっているのがわれわれの生きる〈いま・ここ〉なんだ、ということの是非もない現実も含めて。

 こんなtweetがTLに流れていた。

 親が月にたった数千円出して子供にアマプラとキンドルアンリミテッドを触り放題にするだけでなあ、昔の家で言うとでかい書斎とオーディオセット開放する以上の情報資産にアクセスできるようになるんやで。これ実にとんでもないことだと思わんか。その一線に気付いて越えられるかで、おそらく何万いや何十万人というレベルで子供の未来が変わる。もちろん親が望む方向にとは限らないが。

 情報量としては確かにそうだろう。言うように「でかい書斎とオーディオセット」であり、あるいは「ビデオの詰まった壁面戸棚と映画ルーム」であるようなものだ。web介した環境さえあれば、そして手もとに、スマホであれタブレットであれモバイル端末があるならば、場所も時間も問わずにサービスを受けることができる。ドラえもんよろしく、どこでも映画館どこでも図書館どこでもリスニングルーム、というわけだ。

 あっという間の街のツタヤの潰れっぷりにアマプラやネトフリの突き崩しの凄まじさを感じるけど、いやもうあらゆるメディアは完全にネット配信への流れで、テレビや紙の書籍は本当に突き崩されるのを待つばかりなんだよな。予想じゃなくて確信のレベルで。

 もしもの話だが嫌な可能性として。追い詰められた地上波や紙メディアの側が、のぞみ事件の犯人なんか引合いに出して「識者によるナビのない情報過多はヘイトや偏見を招く」とか「総ての子にネット環境があるわけではない、分断を招く規制せよ」なんて喚きだすこと。ほら津田大介とか言いそうじゃない?

 たまたま手に入れることのできた一冊の本、一枚のレコードやCD、一本のVHSテープやDVDを繰り返し巻き返しためつすがめつ、それこそなめるように愛玩して「読む」「聴く」「観る」を繰り返しやる、少し前まで当たり前にあったそんなつきあい方自体の意味を振り返るべきご時世かも知れん……(´・ω・`)