世間の「高校化」・メモ

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 これがいわゆる「内輪」意識のなせる悪さだ、という認識には基本的に異議はない。その点については、以下に準じて。

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 繰り返すならば、問題はその「内輪」の成り立ちやそこに属する生身の個人・個体たちが、どのようにその「属していること」を内面化して意識しているのか、その結果どういう質の「内輪」がうっかり立ち上がっているのか、ということ。その上で、それら「内輪」の場を制御する仕組みが、広義の「政治」の水準も含めてどのように煮崩れてきているのか、ということ。概ねそのあたりが焦点になってくるわけで。

 その点にからんで、このような昨今の「学校」空間におけるそれら「内輪」が宿り得るはずの関係性についての実感的報告が、ある意味背景情報として。

 そして、それは「学校」のみならず、社会に出てからの「会社」空間においても。

 というか、社会の「会社」「職場」もまた「学校」的空間になっているわけで、これはいまさらあげつらうまでもなく、1980年代半ばくらいから察知されてきた事態でもある。「学校」的空間における人間関係が、そのまま「会社」や「職場」にも移行してゆき、それが「仲間」といったもの言いで「内輪」性を隆起させてゆくことに。「会社」や「職場」を舞台とした表現が、映画であれドラマであれマンガやアニメであれ、いずれそれら大衆文化の中でほとんど「学校」と地続きな描かれ方を当然のように獲得していったのも、同じその頃のことだった。
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 ただ、ここでなにげなく使われている「高校化」というもの言いは、そのような「学校」化よりもさらにもう一歩、事態が拗れていった果ての状況を反映しているような印象も否めない。かつて、「内輪」というもの言いに価していたような、良くも悪くも「濃い」人間関係とその上に成り立つ「場」のダイナミズムがほぼ成り立たなくなり、フラットに横並びに等価な個体が整然と、かつ粛々とその場に存在していて、それは確かに「集団」ではあるのだろうが、実質ただの「数」でしかないというありよう。生身の身体、それも10代後半の最も野蛮なエネルギーに溢れているはずの時期の個体たちが「集団」としてそこにいても、決してそのエネルギーが出口を求めて蠢いている気配も表面的には察知しにくくなっている、そういう意味での「高校化」らしいのだ、どうやら。

 とは言え、ああ、ここでもいつものように言っておくしかないのだろう、生身は生身、避けようもなく宿ってしまう生体由来の「自然」は、どこかにそのエネルギーをかたちにして流してゆく水路を求めるものらしい。だからこそ、アルバイトの場などを介してそれらは不意にはけ口を探し始めた時に、その表現の今様として、端末を使ったその場の動画撮影とそれをweb環境に流すこと、というかたちもとり得る。生身の身体が属している「内輪」と、そこに宿ってしまう「自然」が表現を求めてゆく先との、どうしようもない乖離の現在。彼らの「内輪」は未だ立ち上がることはあっても、それと確かに紐付いて「逃げられない関係」において受け止めるべき大きな「世間」の輪郭はもう、久しくぼやけたまんまだ。

*1:くら寿司」バカッター炎上案件関連でこういうスピンアウト的枝葉も。元の、というかお題自体は文中参照。