「いなか」と若者

 彼は地元出身で地元の会社に勤めている。今までも地域の集まりやイベントの準備、手伝い等も率先して参加してきた。というか地元の先輩や年寄連中がいるから仕方なく、というところが強いんだろう、たぶん。そしてこの泣く子も黙る少子化社会、僕ですら若手に入れても片手で数えるほどしかいない。


 その少ない「若手たち」に年寄連中が言うんです、「これからは全部お前たちがやるんだからな」。今まで数十人でやっていたことをたった数人に丸投げする。せっかく地元にいて顔も出してくれていた若者は休日をすべて地元のために捧げ、疲弊し、だんだんと休みがちになり、コミュニティから離脱する。


 もうバブルの頃のように夕方17時に仕事が終わって土日祝は必ず休める時代ではない、それを理解しないまま「俺たちもやったんだからお前たちもやれ」ではもうついていけないのだ。可哀想なのは「真面目に顔を出していた若者」がその餌食になり、他にいるはずの若者に対して頼むことはしないという姿勢。


 こんなのジリ貧になるに決まっている。そしてまた「若者が少ない」と年寄連中がボヤく。もう一度言うが、田舎に若者はいる。いるんですよ。田舎の中高年の方、もしあなたの田舎に積極的に集まりやイベントに参加してくれる若者がいたら、気を遣ってあげてください。結婚して若い子供がいる方なら尚更。


全ての、とは言わないが田舎のコミュニティはまるでブラック企業と同じことをしている。自覚なく若者を食いつぶしている。「伝統だから」とか「地域の決まりだから」というのは、時代にもう合わないかもしれない、ものによっては減らしたり無くしたりと柔軟にならなければならない。田舎も人も。

 「地方」と「中央≒都市部」、後者はいまどきのトーキョーエリジウムになるわけだが、その間の「違い」「落差」「格差」が昨今本当に見えにくくなっていることは、なにも具体的な衣食住、生活レベルのあれこれに限ったことでもなく、こういう人間関係やその上に成り立っているはずの「場」(「社会」とまではいきなり大文字化せぬが吉)のありようなどにまで「平等に」見て取れる現在ではあるらしく。

 ブラック企業とこういう地方のコミュニティ≒「いなか」がやっていることが基本的に同じ、という認識はまず正しい。正しいし、そういう認識から個別具体での対応対策身の処し方を考えてゆかねばならないという意味でも、間違ってはいない。いないのだが、しかし同時にまた、じゃあどうしてそういう風に双方が地続きであるかのように「同じ」に見えるようになっているのか、それは昔からそういうものだったのか、などといった奥行きを伴った自省、立ち止まりにまではなかなか行き着けないものでもあるらしい、良し悪しともかくとして。

 だから、この「若者」を「外国人」に、それが留学生であれ労働者であれ置き換えてみることが、何かとりあえずの解決策、役に立つ実践的な処方箋だと考える向きが昨今、なにも政治家役人財界だけでなく、そこらのフツーの人がた、世間一般その他おおぜいに至るまで何となくの多数派、それこそ言わずもがなの「空気」「気分」にまでなっているらしいことについて、どうしてそうなったのか、その背景には何があったのか、などについての問いを共有して行くようにも当然、なりようもない。

 「いなか」は「ある」。ブラック企業とも地続きのような見え方、現われ方をして眼前に「ある」。その「ある」という認識の上に、ならば果してどういうことばを次につむぎ出してゆく必要があるのか。それは本当に「いなか」なのか。「いなか」とくくってしまうことでかえって見えなくなってしまっている領域はそこには「ない」のか。

 たとえば、引用tweet中にある「コミュニティから離脱する」ことが、「いなか」であれマチであれブラック企業であれ、うっかりできるようになったことが本邦戦後このかた達成してしまっている「豊かさ」のひとつの現われ方でもあるのだろうけれども、その「離脱」した先、その場からいなくならないのだとしたらさて、どのようなあり方でそれまでと同じその「場」に存在して生きているのだろうか。